[#表紙(img/表紙.jpg)] 私の猫たち許してほしい 佐野洋子 目 次  花は美しいのでしょうか  風がはこぶもの  見知らぬ街に降る雪は  空から降るもの  人は言葉を話すので  四角いガラスの向こう側  時は過ぎゆく  とどのつまり人は食う  はるかなる男友達  こんなときなのに  私の猫たち許してほしい  Schwarz Herz  うそ話を  朝目がさめたら、風の吹くままに  本文挿画 著者 [#改ページ]  花は美しいのでしょうか  ばらはさわがしい花である。  ある時、植物園にばらを観に行った。人のまばらな天気のよい静かな植物園で、ばら園の一角だけが、ざわめいて、音もないのにけたたましいのである。実におびただしいばらがあった。大輪の白いばらもあったし、血のように赤い花もあった。甘やかなピンクのまわりがかすかに色濃く深まっているのもあったし、小さな野ばらもあった。クイーンエリザベスという堂々たる名前の花もあったし、セブンティーンという可憐な花もあった。固いつぼみもあったし、美しい娘の時を誇っている花も、しどけなく散りかけている花もあった。その一つ一つがすさまじい自己主張をするのである。大輪の白い花は、私は白いの、こんなにまっ白、見てちょうだい見てちょうだい、といっている。  セブンティーンは、小さくたって、私は私よ、可憐でしょ可憐でしょ、可憐って私のことよ、と叫び、つぼみは、私は今はつぼみよ、でも明日になれば、開いてやるんだから、明日になれば、と首をつき出している。野ばらでさえ、低い背丈で一重《ひとえ》の花びらで、私こそ野ばらよ、人は人よ、私は私なんだからと、地面のそばで黙ってはいない。  そしてくずれかかった花は、昔私きれいだったの、今こんなになったって一体だれのせいなのよ、わたしのせいではないわと開き直ってしどけないのである。  ばらは西洋の花なのだ。      *  しょうぶの花を観に行った。  私はしょうぶは五月の節句の濃い紫色が一種類しかないと思っていたけれど、実に何百というほどの種類があって、微妙な色の違いと、花びらの変化をもっていた。  空蝉《うつせみ》とか、浮舟とか、悲しいような名前もあった。  端然としたたたずまいで、どの花も、するどい一本のくきをしゃんと伸ばして、すっくと立っている。  いぎたなく隣りに寄りかかっている花などない。  そして花畑はしんとしている。  私はしょうぶの花がこれほど妖艶《ようえん》だと思ったことはなかった。妖艶なのに、音もなく妖艶なままなのである。  一つずつの花が、そのあでやかさを自分の中につつみ込んで自足している。  そして一本の静かさが二本になると、二倍静かなのである。静寂というものは何もないところから生まれると思っていた私は、花がおびただしくなればなるほど、花畑がしんとしてくることに気づいて、少しおそろしくなってきた。静寂とは一つの存在であり、おびただしく存在することで、静寂も深くなることを不気味に思った。      *  私の父は、花を育てるのが好きで上手な人だった。  子供の顔よりも大きなダリアを咲かせたり、家の前の行き止まりの道をコスモスでいっぱいにしたり、細い道の両わきに百日草を果てしなく植えたりした。百日草は、ほこりをかぶっていつまでも咲いているので、私はその道を通ると、昨日と変わらぬ今日が続き、何の変化もない人生が果てしなく続くような気がして、子供心に「退屈」を思った。  高価なめずらしい花ではなく、どこにでもある花をおびただしく咲かせるのである。花の手入れをしている父は、けっして、おだやかでやさしい顔などしていず、毛虫をつまんで足でふみつぶし、不機嫌な目付きで、こやしをまいた。私が大きなダリアの首を折った時、「お前もこうしてやる」と恐ろしい力で、私のうでをひねりあげた。  ある夏の夕方、ダリアの畑の中に、十五、六の見知らぬ少女が、ふわふわと迷いこんできて、ダリアの花の中で、着ていた浴衣をぬぎ捨て、素裸になって、「ちょうちょ、ちょうちょ」と手をひらひらさせた。私はあんな美しい裸像を見たことがない。遠くで祭りの太鼓が鳴っていた。ダリアの中で、その少女の体は、人間の肉体を越えたように神々しく、母が裸足《はだし》でとび出して、浴衣をかぶせるまでの一瞬だったけど、どんな名匠の描いた裸像よりも清らかだった。たずねても名前もわからないその少女は、「ちょうちょ、ちょうちょ」と、どこから聞こえてくるのかわからないような声をしていた。  父の作ったおびただしいダリアは、あの一瞬のために咲いたのだと思う。 [#挿絵(img/013.jpg)]      *  アンジェリカは見上げるほどの大女で、まぶしいほどの金髪を盛大に綿菓子のようにふくらまして、身をかがめて私に話しかけた。雪の降る日など、首が折れるほど顔を後ろに傾けて話をするので、私の目や口に雪が入ってきてとけた。  ある日、アンジェリカは自分の小さなバルコニーに咲いた三色スミレを七本わたしてくれた。私は四本を自分の机にさし、三本を下宿のおばあさんにおすそわけをした。アンジェリカは私の下宿のおばあさんの孫娘で、隣りに住んでいたけれど、おばあさんとひどく仲が悪かった。  次の日アンジェリカは険しい顔つきで、 「あなたはどうして花をおばあさんにあげたのですか、たいへん失礼です」  といって、それから固い表情のまま、階段ですれちがっても、私を無視したままだった。外国には、もらった花をけっして人にわけたりしてはいけない慣《なら》わしが、あったのだろうか。今もわからない。たった三本の可憐な花が、私達の友情をこわしてしまったのだろうか。  その街を離れる日、私はアンジェリカにあいさつに行った。私はアンジェリカという優しい名前と、遠くで鈴が鳴るようなひそやかな話し声が大好きで、見知らぬ街で、誠実で親切なアンジェリカがどんなに私の孤独をいやしてくれたのかを思うと感謝せずにいられなかった。アンジェリカはドアを少しあけて口を固く結んだまま、私からのばらの花束を受け取り、それを足元に落とし、大きな足で、たばこの火をもみ消すように花束をふんで、ドアを閉めた。  赤いばらのつぼみが一つ、ドアからはみ出していた。      *  私はあんまりみじめで、何も手につかなかった。私は猛々《たけだけ》しい気持で、ささくれだって、花屋の前で、やけくそに大輪の白いぼたんを買った。  花を生けて、部屋はあでやかになったけど、私は皮肉な気持で、白いぼたんをながめた。そして、白いぼたんの芯からほのかに赤くにじんでいる部分をいやらしいと思った。ぼたんが枯れる前に、ピンクのばらを買った。一かかえもあるけしの花を買い、匂いの強い百合を何本も生けた。ばらは虚栄のかたまりのようだと思い、けしははかながって同情を引く女のように見え、百合の匂いはこれ見よがしの下品な匂いだと思った。それでも私は花を買うのをやめなかった。季節がうつりかわっても、私の中の毒々しい気分は薄くはならなかった。  友達が来て、 「お宅は、いつもきれいな花があるのね。花を生ける余裕があって、あなたしあわせね」  と言った。私は驚いて、苦々しい気分のまま、ますます自分をいやらしいと思った。  私は今まで、あのようにみじめで、醜い心の自分をもてあましたことはなく、私の家が、あんなに花があふれて、はなやかだった時期はない。      *  高校の数学の時間、私は退屈で、どこかから持ってきた赤いばらの花の頭を一つもてあそんで、そのうち、花びらを一枚一枚ひっぱってむしり取った。ビロードのようになめらかで、あざやかな花びらを見て、私は、大きくて形のよいのを二枚選んで、上唇と下唇にはりつけた。先生が黒板に問題を書いているすきを見はからって、後ろをふり向いた。クラスメートがどっと笑いくずれたので、数学の先生は、ふり返った。私は、あんなにみんなが笑うとは思わなかったので、あわてて向き直ると、先生と目が合ってしまった。私の唇はまだ、ばらの花びらがはりついたままだった。  先生は、「そのまま立っていろ」と短くいって、また黒板に向かった。教室はしんとしてしまい、私はばらの花びらをはりつけたまま立っていた。  どうしてみんなはあんなに笑ったのだろう。  白雪姫は、雪のような肌をして、ばらのような唇をしていたと書いてあったではないか。私が炭のような肌をして、ほとんど美しくなかったとしても、唇くらい白雪姫の真似をしてどうしてあんなにおかしかったのだろう。  ずいぶん時がたって、もう一度まっ赤なばらの花びらを口にくわえて鏡を見たとき、私はあんなにみんなが笑ったわけがわかって、自分も笑った。  美しいものは、美しい人にしか似合わないのである。      *  ミスタ尹《ゆん》は、韓国の若い言語学者の卵だった。私はドイツの南の小さな大学街で、一日だけミスタ尹の友達だった。ミスタ尹は習いたての日本語で、私と話をした。  私のめちゃくちゃな英語と、彼の習いたての日本語で、私達は理解することが出来たのだろうか。  ミスタ尹は、自分の研究している言語学の語源を調べるために、どうしても東欧に行きたいけれど、東欧へ行くためには祖国を捨てねばならない、祖国を捨てることは出来ないし、東欧に行かねば研究は先に進まない、と言った。私は、私の知らない難しい国情に、何を言ってよいかわからなかった。  ミスタ尹は、ハルツ山のいただきの白い雪を指さして、「まっ白い」といい、私のコートを指さし、「まっあかい」と言った。  足もとに、私の知らない小さな黄色い花が咲いていた。名もない雑草かもしれなかった。ミスタ尹は、その花を指さし、「まっきれい」と言った。  私は「まっきれい」という言葉に感動した。生まれたての言葉というものがあるのだと思った。  ミスタ尹は、そのまっきれいな小さな黄色い花を一本折って、私にくれた。ミスタ尹にはそれっきり会っていない。まっきれいだった小さな黄色い花は、私の手帳の中ですっかり色あせたけれど、私は時々、たった一日だけ友達だったミスタ尹のことを思い出す。  そして祖国という言葉の美しさと重さを考える。 [#改ページ]  風がはこぶもの  夏の夕方、母が子供たちを連れて散歩に出た。場所がどこだか思い出せない。  林の中で、あたりが夕焼けで、木が赤く見えた。私にとって、静かな林の中は退屈で、機嫌の良い母は、どこかのやさしい小母さんみたいだった。  私は母のすぐあとを歩いていた。  涼しくてやさしい風が私たちを吹きぬけていった。  突然母が、 「ああ、お母さん幸せだわー」  と言った。私は非常に驚き、居ごこちが悪い気がした。母はいつも不機嫌で、右へ左へ子供を引き倒し、引き倒された私たちは、上目づかいに、親の予想のつかない不機嫌をおそれ、そして子供である私たちが、母の不機嫌の原因であることに、申し訳が立たない気がするのだった。その時、私には幸せが何であるかわからなかったし、幸せになりたいなどと考えもしなかったと思う。  母が突然、どこかにしまってあったやさしい声をとり出して、「ああ、お母さん幸せだわー」と言った時、母はいつもは幸せでないのだと私は思った。  私は、あたりをキョロキョロ見まわした。時どき、夕焼けの静かな林の中を、涼しい風が吹き抜けた。  私はその時、母の幸せは、この林の今ここにしかなくて、それはとても短い時間、あっという間に過ぎ去ってしまうものなのだと、とても不安な気持になった。  私は、私も母と同じ幸せを感じるべきだとあせった。  しかし、私は何だか、ぬりえの女の子を、自分の画用紙に真似して描いて、うまくいかなかった時のような気がした。  あの時、あの林の中をやさしい風が吹き抜けなかったら、母はけっして幸せを感じなかったのではないかと今も思う。 [#挿絵(img/023.jpg)]      * 『去年マリエンバートで』という映画があった。非常に芸術的で難解な映画だった。  貴族の館の中で、意味あり気な男や女たちが意味あり気な目付きをして、極端に言葉少なくソロリソロリと歩いていた。  しかし、私が非常に驚いたのは、貴族の館の庭の木だった。庭の木が、数学の時間に円錐とか球とかの見本に先生が持ってきて見せてくれた、白い石膏のような形をしていたことだった。鋭い三角形をした庭の木が、どこまでもまっすぐに並んでいた。あるいはテニスのボールのようにまんまるな木が、月光に照らされていた。意味あり気な男と女が、三角錐と球の間をソロリソロリと歩いてゆく。  ヨーロッパの春は一日でやって来た。  一日で街じゅうがまっ黄色になった。クロッカスが突然黄色い炎のように咲いた。  バス乗り場の小さな広場に、コンパスと定規で作ったような花壇が現われた。  それはあざやかなフェルトをぬい合わせたふとんのような、あるいは絵具でぬりつぶした模様と同じだった。  風はどうするのだ、と私は思った。  こんなにびっしり咲いている花に風はどうつき合うのだ。  私は日本の生け花が、花を生けるのではなく、風を生けるのだということがわかった。貧しい長屋の庭先のはち植えの朝顔でさえ、風は吹き抜けてゆく。  ベルリンのバス停の花壇の前で、私は「マリエンバート」の三角やまんまるの木のことを思い出した。風はどうするのだ、枝と枝の間を吹き抜けるべき風は、石膏の三角錐のようにかり上げられた物体から、強い拒否を受ける。  風はどうするのだ。      *  ボローニャの街から郊外の山の頂上に向けて、長いかいだんがあった。  とめどなく長いかいだんは、屋根がついていて、両側のかべは修道院の廊下のようにアーチ型にくり抜かれていた。  そして、山の頂上に教会があった。  真夏でひどく暑くて、私は一人だった。いくら登っても、うねうねとかいだんは永久に続くのだった。  いつまでたっても旅慣れない私は、新しい街につくと、途方に暮れて、どこへ行ったらよいかわからなかった。そしてホテルで観光地図をもらうと、大きなイラストが描かれている名所に出向き、義務を果たしたような気になった。そして、何か驚いたり感心したりしなくてはいけないような気がした。  私はほんとうは驚きもせず感心もしていないのだった。時どき私は有名な大きな教会の前で、呆然となり、どうして私はここにいるのかと不思議な気がした。  あまりかいだんが長いので、私は教会に行くためにのぼっていることを忘れた。私はかいだんを登りきることのためだけに歩いた。  人に一人も会わなかった。  果てしないアーチ型の柱があるかいだんが続いていた。  私はしゃがみこんで休んだ。  真夏の真昼、シーンとしていて、暑かった。  どこからかにわとりが一羽でてきて、私の前をよこ切っていった。  そして、涼しい風が吹き抜けていった。  突然わたしは、そのとき諒解した。何と諒解したのかわからない。  そこに木の葉が光っていること、太陽がかがやくこと、土があること、にわとりがいること、そしてここにわたしがいること、一瞬にして私は納得した。 「ああ、そうだったのか」と私は思った。  何がそうだったのかはっきりわからない。ただ、風が吹き抜けたときに、世界がまったく新しい親しさで開けてき、生きることも死ぬことも風と共に、あるいは風のように諒解され、世界が、風と共に、あるいは風のように受け入れてくれたと感じた。      *  スペインの海岸にある古い城跡に行ったことがある。さわやかな真夏だった。  城跡は海からそそり立ち、長い石のかいだんがところどころくずれて、くねくねと城跡まで続いていた。半分くずれた城には、つみ上げた石をくりぬいた窓があり、四角い海が見えた。  しばらく前から、山の中腹に坐ってぴったりと抱き合った若い恋人たちがいた。時どき山を登って来る観光客は、二人をよけて登ってくる。それでもその二人は微動だにしない。  私は海を見ることもお城を探険することも止めて、じっと二人を見つづけていた。  よく見ると彼らはとても若かった。女の子はあざやかな紫色のワンピースを着た黒人だった。黒くて長い脚を石だんに投げ出し、細い形のいいうでを男の子の髪の毛の中につっこんでいる。男の子はちぢれて量の多い女の子の髪の毛に顔をうずめて、白い腕で女の子の胴を力いっぱい抱きしめていた。  彼らは今にも引きさかれてしまうことに命がけで抵抗しているように見えた。  彼らはそれ以上密着できないのに、時どき何かを恐れるように身じろぎをして、もっと強く抱きしめ直し、男の子は狂おしげに頭にうずめた顔を左右に動かした。  なだらかな緑の山の中腹で、あざやかな紫のワンピースを着た黒人の女の子としっかり抱き合っている男の子は、美しい絵だった。  恋人たちは石のように動かないのに、私は飽きることなく目を離せなかった。ただ美しかった。  その時、海から風が吹き上げて、紫色のスカートをはためかせた。  ああ、愛が空の中に吹き上げられてゆく、と私は思った。  吹き上げられた愛はどこへ行くのか。  やがて彼らは帰ってゆくだろう。  いつか彼らは愛し合ったことを忘れるかもしれない。そしていつか死ぬ。  しかし、風が運んでいったあの時のあの愛は、どこへ行くのだろう。  風に吹き上げられた愛だけが不滅のまま、生きつづけるような気がする。 [#改ページ]  見知らぬ街に降る雪は  私は長旅にくたびれてしまって、飛行場から乗ったタクシーの中で目があけていられないほどだった。  雪が降っていて、クリスマスイブだった。  初めて見る外国の雪の降るクリスマスイブを、ほとんど目をあけていられなかったのに、一枚の絵のような情景として覚えている。  雪におおわれた道の両側に庭のある家が並んでいて、家のうしろには、黒ぐろと森が続いていた。どの家の庭にも、雪のつもったもみの木が、ちかちかと無数の豆電球をつけて輝いていた。  その美しい絵の中を走っている私の車の前を、大きなまっ白な狐が、体と同じぐらいの見事なしっぽをひきずって一瞬よぎって行った。  しばらく住むかもしれないその街の美しすぎる光景は、とても私を不安にした。  私の見てきた日本の沢山の風景は、美しくても、みすぼらしくても、私の中に降りつもってとけてしまっているのに、あの初めて見た雪の降るクリスマスイブの情景は、いつまでたっても一枚の絵のままである。      *  いつまで住んでも、そこは見知らぬ街だった。  見知らぬ街にいると、私はたびたびどきっとした。  それは、ビー玉のようにすき通っている外国人の瞳になじまなかったのでもなく、金髪の男の人を不思議だと思うことでもなく、音楽のようにしか聞こえない外国語のせいでもなかった。  それは、タクシーの運転手の、顔の見えないうしろ向きの首を見るときだった。  でっぷり太った中年の男の髪の生えぎわと、洋服のえりにくいこんでいるあいだのわずかな首を見ると、私はどきっとした。  その顔の見えない運転手のうしろ向きの首が、金髪がもえるように見える美しい少女を見るときよりも、私に外国を感じさせた。  バスの運転手の首を見ても、それが、洋服のえりからはみ出した肉にかぶさっている赤っぽい皮膚と、白っぽいうぶ毛を見ると、私はもう、日本には帰れないほど、遠くにいるのだと思わされた。  少しずつ慣れて、一人であちこち歩き回るようになって、マーケットに肉や野菜を買いに行って、すっかり日常の生活をその街でするようになっても、レジの前に並んでいる太った男の、顔の見えないうしろ向きの首を見ると、私はどきっとして、孤独を感じた。  私は、その街を離れるまで、それに慣れることはできなかった。      *  街の人は約束の時間に、一分も遅れず、一分も早く来なかった。学校の友達は、毎日描くデッサンの数を決めると、どんなことがあっても枚数だけを仕上げた。下宿の孫娘は一週間のこんだてを決めて、一年じゅう七種類の料理をくり返し食べていた。彼女は死ぬまで、それを変更しそうにもなかった。  どんなおしゃれな女も、だらりとしたおしゃれなどせず、上から下までボタンをぜんぶかけていた。  郵便屋は十一時半にかならず来た。  街中の道はどこまでもまっすぐで広かった。曲がりくねった細い路地などなく、野良犬がうろつき回ったりはしなかった。犬は、金あみの口輪をはめられて、ひもにつながれたまま、きまった街路樹でうんちをしているにちがいなかった。  私はホームシックにかかると、やたらと歩き回った。  歩きつかれると、気に入った番号のバスに乗った。  バスの終点が、湖や林だと、私はさらに歩いた。  ある日、私は、林の中を歩いていた。林の中に鹿の絵が描いてある標識があった。動物が出てくるから注意するようにという意味で、ほんとうにりすやうさぎがいた。  雪が降りだしてきた。私はもどろうと思って立ち止まって、雑木林の木が、整然と並んで、何本もの木が一直線に並んでいることを発見した。少し歩いてまた立ち止まって見ると、やっぱり一直線に並んでいる。どこまで歩いても、木は、兵隊のように、等間隔に生えているのだ。もういいよ、もういいよ、わかったよ、と私は叫びたいくらいだった。  そして、私は上を見た。  雪が、一列に並んで降ってきていた。  私のホームシックは本物だったにちがいない。 [#挿絵(img/033.jpg)]      *  見知らぬ街で、私は手紙ばかり書いていた。  同じあて名に、日に三通書くこともあった。私は毎日郵便局に行き、郵便屋の来る時間だけを待っていた。  ある日、郵便局の前で、異様な老婆が立っているのを見た。  ひょうの模様の外套を着て、羽根のついた緑色の帽子をかぶっていた。そしてその帽子をかぶっている首が、前に折れてしまっている。私は人の首があんなに折れ曲がるのを見たことがなかった。そして、やせている全身がけいれんしていて、ヒューヒューと窓からのすきま風のような音が、ひきつった口からもれていた。  私は、今すぐ倒れて死んでしまうと思った。  長い脚でその横を通りぬける男たちが何人もいたけれど、誰も立ち止まらなかった。  私はそばへ行こうかと思った。  すると、老婆は枯木のような両手をけいれんさせたまま、そろそろと下に伸ばして、足もとの買物かごをつかんで、がくがくと前へのめるようにして動き出した。首は折れたままだった。  あの老婆は、今日か明日、死んでしまうのだろう。いや、すでに死んでいたのかも知れないと思った。  次の日、同じ場所にまたその老婆は、同じ姿で立っていた。足もとには買物かごがあった。  どれほどの時間を彼女が立っているのかわからなかったけれど、郵便局に行くと、私はたびたび彼女を見た。  雪の降る日だった。  郵便局の前にあの老婆が立っていた。  雪の降る日は、ことさら人びとは急ぎ足で歩くので、けいれんしながら首を折ったまま立ちつくしている彼女は、さらに異様であった。  傘をささないで急いで歩いていた私のコートの上に、雪はまばらに落ちているだけなのに、彼女のひょうの模様の外套の両肩に、雪がうっすらとつもっているのを私は見た。  あれは老婆だったのだろうか。  年老いた肉体が立っていたのではなく、幼い時から、イエスとノーをはっきり意思表示してきた西洋の女の、強い意志が、硬直し、けいれんし、首が折れてしまってもなおかつ、強い意志のまま、強い意志だけが立っていたのではないだろうか。      *  その街の人は、何にでもかぎをかけていた。私は街から私の借家にもどるために、おびただしいかぎのついた扉をくぐらなければならなかった。アパートの入口の門のかぎ、建物の入口のドアのかぎ、さらに下宿のおばあさんの家の扉のかぎ、その扉には、上と真ん中に二つのかぎがあった。そして私の部屋のかぎ、台所の冷蔵庫のかぎ、食器だなのかぎ、がたがたきしむベッドのわきにある小さな机のひき出しにも、かぎがあった。  四階の私の部屋のたった一つの窓にも、かぎ穴があり、そそり立った石造りの壁にあいている小さな窓のそのかぎ穴を、私は理解できなかった。  どの扉のかぎも、閉めると自然にロックされてしまい、かぎを部屋の中に置き忘れると、二度とふたたび部屋の中には入れないのだった。毎日何度も出入りする私の部屋のドアが、私をはき出したあと自然に閉まってしまうと思うと、私は私の部屋からも拒否されてしまったような気がした。  雪が降っている日だった。広い庭のある廃屋があった。それはもう何十年も前の戦争で爆撃を受けたまま、屋根は三分の一以上なくなり、外から家の間取りなどがそのままわかった。  いたるところに同じような家があり、弾痕が無数に残っている壁が、そのまま残っているアパートもたくさんあった。  雪は荒れ果てた広い庭にふりつもり、頑丈な鉄の門に、大きなかぎがさびついたままになっていた。そして屋根のない玄関に残された扉に大きな錠前がしっかりかかっているのを見たとき、笑いだす前に、私はショックを受けた。  いったい、何から何を守ろうとするのだろうか。  空から雪が降りつもり、以前は寝室だったかも知れない部屋は、まっ白になっている。  拒否する手だては何も残っていないのに、拒否する意思表示だけが、はっきり示されている。  あのかぎは、見えるものを守っているのではない。  破壊されても、朽ち果てても、すでになくなってしまっているものさえも守っているのだ。  私はその時ほど、その街におびただしくかけられているかぎが、はっきりと私を拒否していると感じたことはなかった。 [#改ページ]  空から降るもの  子どものころ雨が降ると外へとび出して、口をあけて天をあおぎ見た。  目まではりさけんばかりに大口をあけても、口の中に入ってくる雨はたよりなく少なかった。雨は甘かった。  雨の中にはお砂糖が入っているのだという子どもの噂を、私は信じていた。  私は、口が疲れなくていいように、ままごとのバケツを外へ出して、ぬれながら、雨がたまるのをしゃがんで待った。  そしてわずかにたまった水に指をつっこんでなめてみた。少しも甘くはなかった。  私はまた天をあおいで口をあけた。  空から降ってくる小さな水はたしかに甘い。私は私の口とバケツの間で何かがおこるのだと思っていた。  雪が降ると、またもや私は外へ走りでて、大口をあけて、天をあおいだ。  雪は雨よりもゆるやかに降り、かすかに口の中に落ちてとけた。  雪も口の中で甘くひろがった。  私には雪の山はお砂糖の山に見えた。  私達は甘いものに飢えていたから、庭につもった雪の山は巨大な砂糖の山に見えた。甘いものはサッカリンといわれる錠剤しかなかった。  私は雪の山に腹ばいになり、雪を口の中におしこんだ。雪はほこりくさく冷たくにがかった。  にもかかわらず私は、雪の山が砂糖の山ではないということを信じたくなかった。  私は雪の山の近くに寄ることはやめて、窓の内側から雪を見た。  庭のすみにある石炭の山がまっ白に光っていた。  雪に腹ばいになって口に雪をつっこんだから、雪は砂糖ではなくなったのだと私は考えた。  ここで、遠くで白くかがやく山を見ているかぎり、あの山は砂糖の山なのだ。  なぜ私が事実を知りながら、雪の山を砂糖の山であると思いたがったのか。  砂糖の山であると思うことは、遠くで見ているかぎりなぜ事実になったのか。  私はいつまでも、窓の内側から、光る砂糖の山をおいしく見ることができた。  何十年の歳月は、私に数々の美しい雪景色を見せてくれた。  しかし幼い日、あのように情熱をこめて、あの雪は砂糖なのだと思いながら熱心にながめた雪を、私はもう持つことはできない。  次の日、太陽でとけかかって黒い地はだが見えはじめた雪の山は、私をとてもみじめにした。  それは、貴重なおいしい砂糖に対する冒涜《ぼうとく》であった。      *  学生時代、私は牛込の叔母の家に下宿していた。  叔母の家は、曲がりくねった路地の奥にあり、もう五十年も昔の家だった。  路地はまたいくつもの路地につながり、時代劇にでてくるような、玄関の戸の上半分が障子になっている長屋が、地をはうように寄り集まっていた。  雨が降ると、石だたみがぐらぐら動き、石の下からぐちゅぐちゅと、どろがはね上がった。  その長屋の小さな庭で、植木屋さんのお妾さんだという人がふんどしを干していたり、袋はりをしている親子が、路地から見えた。叔母の家の隣りの玄関先は、ゆかたを着たゆうれいが赤ん坊を抱いてでるのだった。  ごたごたと家並みが不ぞろいだったけれど、人びとはけっして不潔な暮らしをしているとは思えなかった。夏には路地は水が打ってあったし、玄関の障子を開け放して、すだれがかかっていて、小さな窓に朝顔の花がからみついていた。  ある朝、窓を開けると雪だった。まぶゆく白い雪が、あたりをまったくちがう世界にしていた。  ひしめき合っている長屋の屋根が美しかった。叔母の家の少し波うっている瓦も、雪がつもると、波うっていることが微妙な美しさだった。  私は、自然が平等であることにあらためて気づいて、うれしいと思った。  あるとき、清少納言が、貧しく汚ならしいあさましい家が、雪が降って趣きがでてくるのは生意気である、と書いているのを読んだ。  私は雪の日、叔母の家から見えた雪の日の景色を思いだした。そして小さな屋根の下で肩を寄せ合って生きていた人たちのことを、なつかしく思いだした。  ゆり動かしてもなかなか起きない息子が、「雪だよ」の一言で私をつきとばしたり、朝早く、「お姉さん雪、雪」と電話をかけてくる妹も、貧しくあさましい屋根の下に住んでいる人たちである。  貧しくあさましい人たちをうとんじていたらしい清少納言を私が好きなのは、あの雪の日の感想が、じつに率直であるからだと思う。      *  雪の降る夜は、絵本のクリスマスのような家並みがあり、くもった日は、淡いモノクロ写真のような壁があった。冬の日光は、目が痛いほどまぶしく明るかった。  外国の自然は、私の知らぬものだった。美しい雪の景色もまぶしい冬の光も、私は拒否した。  ある日、私は仕事のために、大きなビルの部屋にいた。まっ白なワイシャツのそで口から金色の毛をはみ出させた、若くして成功した社長は、にこやかに私の顔を見て、 「あなたの美しい目のようなチャーミングな絵を描いてほしい」  といい、私はぶったまげて、あほらしくて、にやにやした。外国の男のものいいは、外国の自然のように、私にはなじめなかった。その男は、大きな窓ガラスを指さして、「雨は美しい」といった。細い雨が降っていた。ああ今日は雨が降っていたのか。もう春なのか。  私は日本のじとじとする六月を感じた。  そして、たてこんだ牛込の叔母の家に降る雨を、なつかしく思った。裏の墓地の卒塔婆と便所の窓の間に降る細い雨。暗い茶の間の窓ガラスと、隣りのへいからせり出した葉っぱの間に降るけちくさい雨。私は細い雨にホームシックを凝結させて、ばかでかいガラスからの美しい外国の景色を見ながら、涙を出しはじめた。 「あなたの心にも美しい雨が降るのですか」  成功した金色の毛むくじゃらの男は、さらににこやかにいった。 「おばさん、雨が降ったら、海が見えて、木が見えて、雨がきれいに見えるうちを建ててやるからね」うそだった。私は、あのけちくさい雨だけをなつかしんでいるのだった。 [#挿絵(img/045.jpg)]      *  雨の降る冬の夕暮れに、私はサギにかかった。寒くておなかがすいていて、早く叔母の家に帰って、夕食にもこたつにもありつきたかったから、いそいでいた。  明るい商店街を曲がって路地に入ろうとした時、女の人に声をかけられた。 「東京駅に行くにはどうしたらいいんですか」  女の人はネッカチーフをかぶって、大きなマスクをかけて、黒いオーバーを着て、かさをさしていなかった。 「ここから、バスに乗って、市ヶ谷から国電に乗るんです」 「あの、歩いて行きたいんです」  あっという間に、彼女は、学生で清瀬の療養所にいるけれど、両親のいる伊東に帰る途中、池袋でお金を落としたといった。  私はこれはサギかもしれないと思った。  ちがうかもしれないとも思った。  私は財布の中に、ほんのわずかのお金しか持っていなかった。 「学生さんですか」と彼女は聞いた。  彼女が私に「学生さん」と言ったとき、私は、「ああ、私は学生なんだな」と急にはっきり思わされた。私は自分が学生だと思ったと同時に、彼女が病気の学生だと思い、私が元気であることが申し訳ないような気がした。  私は私の財布の中から、東京駅までの電車賃を貸そうと思い、あとは東京駅で、駅の人に借りるといいと言った。わずかなお金なのに、彼女は返したいから住所を書いてくれと言った。私は薬屋のウインドウに紙をあてて、叔母の家の住所を書いた。それを見ながら、彼女は、「おくにはどちらですか」ときいた。 「静岡」 「ああ、わたし静岡に住んでいたことがあります」  私はたちまち彼女を信じた。私はなつかしいとすら思ったのだ。私は叔母にお金を借りて彼女に貸してやろうと思った。  そして、彼女を路地にさそった。  私が美術大学にいると聞くと、彼女はまた、「私、ゴッホが好きです」と言った。たちまち私は彼女を信じた。私はべつに、ゴッホが好きだったわけではない。  私は家にかけ込むと、叔母にお金を貸してくれと理由を言った。  叔母は、「それは怪しい、わたしが見破ってやるから家に上げなさい」と言った。  雨が降っているのに、彼女は門から中に入らず、何かかくれているようにしていたのに、私は遠慮だと思った。  叔母が強く中に入るように言うと、玄関のたたきのすみに立ち、私に説明したことと同じことを叔母に言った。  叔母は私をつれて茶の間にもどり、「怪しい」と言い、私は叔母が「怪しい」と言ったために、「だいじょうぶだよ」と言った。  叔母は財布から二千円を出して、私にわたし、私はそれを彼女にわたした。私は母から一万円送ってもらい、八千円を下宿代として叔母にわたしていたので、その二千円は、私の生活のすべてを支えていたのだ。  いとこが、紅茶を入れて持ってきた。  彼女は大きなマスクをほんの少しだけずらせて、立ったまま、紅茶を飲んだ。飲み終わると、彼女は叔母に、 「すいませんけど、そのサンダル貸してもらえませんでしょうか」  と、叔母の真新しいサンダルを指さした。  そしてこわれかけたぬれたサンダルを玄関のすみに置いて、 「明日、母と一緒にお返しにあがります」  と、ていねいにていねいに頭をさげた。  雨がまだ降っていた。  私は、「送ってゆく」と言って、一本の傘の中に彼女を入れた。彼女は道々、「もう結構です、もう結構です」と何度も言ったけれど、私は、何だかすでに彼女と友達みたいな気がしたのだ。明日、彼女が叔母の家に来たら、私はすっかり友達になるかもしれないと考えた。何だか、彼女は次第に口数が少なくなり、イライラしている様子が見えた。私は都電がなかなか来ないからだと思った。  都電が来て、彼女はまたていねいに頭を下げて、 「また明日かならず来ます」  と言った。  そして彼女は都電にのった。  私は彼女の背中を見た。  私はその背中を見た瞬間、「あー、だまされた」とはっきりわかった。  その背中は、私との間のものを、すっきりとたち切っていた。  彼女の意識の中ではもうその瞬間、私は不必要なものになっていることをありありと表わしていたのだ。彼女はふり返らなかった。  あの日雨が降っていなかったら……、その後、私はたびたび思った。雨が降っていたから、「病気の学生」が、私に浸みてきたのではないか。  彼女の背中が都電の電気の光の中であんなに明確に見えたのは、私が雨の降る外に立っていたからではないか。そして彼女が背中を見せずに、私に手を振っていたら、次の日、彼女は二千円と新しい叔母のサンダルを返しに来たのかもしれない。 [#改ページ]  人は言葉を話すので  一週間に一度、私は画材屋の二階にクロッキーをしに行った。店から二階に上がるのは垂直のはしごで、二階の床に、半間四方の四角い穴があいているのだった。乾いた泥でざらついている床に手をついてはい上がると、裸の上にゆかたをひっかけたモデルが、たばこをふかしながら、穴からはい上がって来る人をジロリと見て、何もいわない。  裸婦を描きに集まって来る人は画描きなのか学生なのか、私はそこで、誰とも口をきいたことがなく、誰もお互いに話などしなかった。誰かが、時計を見て、「時間です」というと、モデルはゆかたをぬいで、立ったり寝たりする。いつだってモデルは腹を立てているように不機嫌で、それをとりまいて、四、五人の人たちが、黙って鉛筆を動かし、誰かがせきばらいをしたりすると、それはいつだって不自然だった。  画材屋は駅前の小さな路地にあり、両わきは焼き鳥屋やバーや飲み屋が並んでいて、クロッキーがはじまる頃は、濃い色のネオンがびっしりとついて、窓もない画材屋の二階に、その通りの声や足音だけが聞こえてきた。  ある時、通りの下から二人の女の声が聞こえた。一人は相手をたしなめているようだった。もう一人はその人よりも若いらしく、とぎれがちにいいわけをしているようだった。ずいぶん長い間、ひそひそと立ち話をしているけれど、ことばは聞こえなかった。あるいは二十歳の私には、水商売の女の人たちの話に興味がなかったのかもしれない。 「あなたそんなことをしていると、世間が狭くなるよ」  ということばだけがはっきり聞こえた。そしてあとは静かになってしまった。  私は、「世間が狭くなる」ということばを初めて聞いた。 「世間」ということばが、私の知っている「世間」ではない様子をして、ありありと私に見えてきた。  私には、「世間」というものは、目に見えないものであった。漠然と私をとりまいているものであり、少し古めかしい、少し私を邪魔するものであり、とりはらいたいものであった。  その時はじめて、私は世間というものが、一人ひとりの生きている人間のつながりである、ということを理解した。 [#挿絵(img/055.jpg)]      *  十九の時の元旦に父が死んだ。  長いこと床にいた死期の近い父を残して、私は東京の予備校に行っていたことが悔いになった。一年間のほとんど、私は美大の受験のために、そこで絵を描いていた。  最終的には、お互いがいちばんのライバルであることが自明であったのに、私はそこで、ほんとうに友人といえる人たちに出会った。たくさんの名前が書きつらねられた香典袋と、厚い手紙が何通もとどいた時、二か月先の受験のあせりよりも、私はその友情の中にもどりたかったのかもしれない。父を畏怖していた私は、やはり失いたくないものを失い、人とのつながりによりかかろうとしていたのかもしれない。  たくさんの友人の慰めと励ましのなかで、受験という日常のなかに私はもどり、イーゼルの前に坐って、今年こそはと思っていた。隣りの空いている椅子に、ふだんあまり話をしたことのない、それでも顔をあわせれば、あいさつも、駅までは一緒に帰るほどのつきあいもする友達が坐った。彼はしばらく黙っていて、 「大変だったね」  とひとこと言った。私はそのひとことを、しみじみありがたく思った。  彼は遠い友達だった。  そのひとことは、彼が、遠い友達のままであることを明らかに示していたけれど、その遠い友情が私を打った。  色濃く私を支えてくれた友情の輪の向こうの遠い友情は、遠い星を見て、宇宙が美しいと感じることに似ていた。      *  きよしちゃんは、父の遠縁の人だった。短い間だったけれど、私が父の田舎にいた時、一緒に学校へ通ったこともある上級生で、きゃしゃな体に、下がすぼまった三角の頭がついていて、色の白い三角の頭の男の子は、色の白い三角の匂いがしていた。  叔母の家に下宿していた時、東京の設計事務所につとめていたきよしちゃんが私を訪ねてきてくれた時、どんなにうれしかったことだろう。大人になったきよしちゃんは、ネクタイをしめて、背広を着ていたけれど、やっぱり色が白くて、三角の頭の男の子の匂いがしていそうだったし、父の田舎の小さな村の段々畑や、日なたにつるされた柿の実を思い出させるのだった。  私たちは新宿の喫茶店に入って、まるで大人になったような気分で、お茶をのんだ。大人になったきよしちゃんは、大人になった話をしたんだと思うし、私は充分楽しくて、遠縁の人なんだもの、当然たびたびお茶なんかのむんだろうと思っていた。  きよしちゃんはバスの停留所まで私を送ってきてくれた。そしてきよしちゃんはいったのだ。 「また交際してくれますか」  私はあっと思う間もなくわめき出した。 「いやだあ、いやだよう」  私はきよしちゃんがあっけにとられて棒立ちになっているまんまなのに、バスにのってしまって、収拾のつかない混乱のまま、自己嫌悪だけが私をおしつぶした。  私は「交際」という言葉に拒絶反応をおこしたのだ。「こうさい」ということばが、私には不潔で、いやらしく、ゆるせなかったのだ。  私はきよしちゃんをきらいではなかった。 「こうさい」という代わりに、 「今度の日曜日、映画に行こうか」  といわれたら、私は喜んで、「うん」といったにちがいないのだ。  私は今でも、きよしちゃんに申し訳がなく、年をとればとるほど、さらに私自身をゆるしがたい。私は気狂いなのだ。生きているかぎり、きよしちゃんに、「いやだあ」とわめいた私がいたかぎり、私は気狂いなのだ。  でもやっぱり、今でも「交際」という言葉が好きでない。      *  夏の夕方で、私は大きな西瓜《すいか》をかかえて小父さんのあとをついて歩いていた。  こんなに大きな西瓜を買ってくれた小父さんは、今日は機嫌がよくて、きっと、私のこともきらいじゃないんだと思えて、私はとてもはしゃいでいたんだと思う。  大きな、まんまるで重い西瓜は、持ちにくかったのだろうか。  私の手からすべり落ちた西瓜が、歩道にたたきつけられて、割れた。  小父さんはすり向き、「チッ」と舌を打った。そのあと私を非難したかもしれなかったけれど、私は舌打ちの「チッ」で、打ちのめされてしまった。  うす赤いしるのたれるぶざまな西瓜をかかえて、私はトボトボと小父さんのあとをついて歩いた。小父さんが機嫌がよいかと思ってはしゃいでいた自分が、不用意で恥ずかしかったし、「チッ」という舌打ちは、私の西瓜を割ったという過失に対してだけではなく、私の存在そのものに対する嫌悪のように思えたし、子供嫌いの小父さんの、子供全体に対する憎悪でもあるような気がした。  子供の私がおかしたおびただしい過失、大人たちが私に与えたたくさんの叱言《こごと》と非難を、私はすっかり忘れてしまっている。あるいは両親は、数えきれない舌打ちを私に対してしていたかもしれないし、私も聞いていたかもしれない。でも私はすっかり忘れてしまっている。  夏の夕方、西瓜を割った私を舌打ちした小父さんを、私はいやだと思っていない。  私に見えるのは、騒々しく落ち着きのない、ぶざまに西瓜を割った嫌悪すべき子供の私である。私は、小父さんの目にうつった私を、嫌悪している。      *  ミスタ崔《ちよえ》には十二年前ドイツで会い、その街に住んでいる間、私たちは親しい友人だった。私が外国人の友人を持ちえたのは、ミスタ崔の卓越した語学力のせいで、語彙《ごい》の範囲でしか思考力は活動しないものだということは、骨身にしみていた。  ドイツ語を話しているとき、私はミスタ崔はドイツ人だと思った。フランス語を話しているときは、フランス人だと思ったし、母国語を話しているときは、ああこの人は韓国語もしゃべれるのかと感心した。 「くつろぐ」という日本語の語源を、私はミスタ崔から教えてもらった。私はくつろぐということばを、つくろぐ[#「つくろぐ」に傍点]といっていたのだ。  ミスタ崔は、私の語学への向上心がまるでないことを、腹立たしく思ったことだろうと思う。当然のように私は日本語を話し、時どき私は、彼が外国人であるということを思い出し、うろたえた。  ある時、二枚のピカソのリトグラフを見ていた。二枚とも闘牛場の同じ場面のリトグラフだった。どちらがよいと思うかと聞かれて、私は一枚を指さした。 「そうですね、こちらには闘牛場のケンソウがあります」  とミスタ崔がいった。  私の頭の中には、「こっちの絵からは音がきこえてくるもの」という言葉しかなかった。私は「喧噪」などという漢字は書けないに違いなかったし、「喧噪」を「音」ですませてしまっている私を、恥ずかしいと思った。  知り合った外国の街で、私はミスタ崔と別れ、それから、三年に一度ぐらいヨーロッパに出かけるミスタ崔と、何度か東京で会った。  何年かに一度会う私は、急速に年をとっているらしかった。  ホテルのロビーで待っていると、紳士のミスタ崔は悠然と近づいてきて、握手をしながらいった。 「人間は年をとればとるほど、その人に似てくるものですね」  私はあれほど的確な日本語を知らない。 [#改ページ]  四角いガラスの向こう側  はしかで私が入院したとき、私は一歳になったばかりだったから、この記憶は嘘かもしれない。私は電気のついた病室にいて、白いペンキをぬった窓わくのあるガラス窓の内側にいた。窓から病院の中庭が見えて、中庭は大きな石だたみが卍型に連らなって、着物を着た母とセーラー服を着た兄が、手をつないで、遠くで私に手をふっている。病院の中庭は暗いのに、私には、母の着物の色も、兄のグレーのセーラー服もよく見えている。  そして私は、兄になっていた。  私には、病室の白い小さな窓にへばりついている私が見えた。小さな窓ガラスにちょうどいっぱいになるほどの顔で、おでこをガラス窓にぴったりくっつけて、兄である私に手を振っている。  兄である私は、私を見て、私は、おでこにくっついた窓ガラスが冷たいと思っていた。  私だけが信じているいちばん初めの記憶は、兄と私の間にあった小さな窓ガラスである。      *  北京の冬は寒かったので、窓は二重のガラス窓になっていた。私は家の庭に面しているその窓から、外の風景を見たという記憶はない。  とても寒い日の朝、私は窓にかけ寄った。  二重窓の内側の二十センチ四方くらいに区切られたガラス窓に、氷がはりついて、様々な模様をつくっていた。模様は一つずつのガラス窓にまったく別々の模様をつくり、精巧な連続模様のレースのようだった。何かの花か、あるいは葉っぱか、あるいは六角形の雪の結晶の形が、寸分の狂いもなくびっしりつながり合って、窓の向こうは何も見えない。  私と兄は、いちばん美しい模様をつくっているガラス窓をうばい合った。いつも私と兄は、ただ一つの窓をあらそった。そしてその美しい模様を指でこすり落とす権利を主張し合った。いちばん美しい模様を、いちばん初めに破壊できなければ、意味がなかったのだろうか。  兄は、ガラス窓に指をふれるとき少しためらい、息をつめて、思い切ったように、窓ガラスに爪をたて、私は「フウー」といった。いちど破壊されれば、私だって存分に指をガラスにこすりつけてもいいのだ。しだいに透明になってゆく小さな窓ガラスの向こうを、私達は見てはいなかった。模様をこすり落とすことだけに夢中になり、めちゃめちゃに荒れた窓ガラスを、征服した国をながめる王様のような気持で、満足して見た。  次の模様にうつる頃には、模様はとけて、だらしない水滴をなみだのように流しはじめて、私たちはもうそんな窓には用がなかった。  なぜなのか、私にはわからない。あのいちばん美しいものを、自分でいちばん初めに破壊したがったのかを。  美しいものを、美しいままにしておきたくないという欲望は、何なのだろう。      *  ドイツにいたとき、台所から隣りの家の小さな窓が見えた。その窓に、黒い洋服を着た老婆が、身動きもせず横を向いて坐っていた。  小さな窓は清潔なレースのカーテンで囲まれ、庭にはもやのかかったような枯草があった。毎朝食事が終わると、私は隣りの窓を見た。老婆はすでに坐っていた。私は、いつ老婆が立ち上がり、食事をしたり、家の中の事をするのだろうと思い、台所のスチームの上に、かえるのようにしゃがんで、老婆を見守った。  いつまでたっても老婆は微動だにしなかった。窓の中の老婆は、額縁の中の絵であった。  私が執念深く老婆が動くことを期待したのは、何であったのだろうか。  たんなる下世話な好奇心であったのだろうか。生きていることは動くことであると信じている、思いあがりであったのだろうか。  身じろぐこともなく老婆が坐っているということが、強固に生きつづけているというあかしであり、いのちというものの不思議であった。      *  寒い夜だった。  大通りに面した私の家の窓を、小さくたたく音がした。九歳ぐらいの男の子が、窓わくによじのぼって、中をのぞいて笑っていた。  窓ガラスの一枚が小さな扉になっていた。  男の子は、手に持っていた新聞紙につつんだものを小さな窓ガラスの扉から中につっこんで、 「これ、あげる」  といった。のり巻きが二本入っていた。 「うちへ帰りなさい」  母がいった。 「家ないよ」「お父さんやお母さんは?」「いないよ。これあげる」「どうしたの」「あっちの小母さんちでもらった。これあげる」「自分で食べなさい」「おれもう食ってきた。これあげる」「じゃあ明日おなかすくから、明日たべなさい」「これやるよ」  男の子はずっと笑っていた。母は、男の子の手を外へ押し出して、小さな窓のガラス扉にかぎをかけた。男の子は、ガラス窓の向こうでまだ笑っていた。しばらくすると、またガラスをたたく音がした。 「さようならいうの忘れてた」  私がこのことを思い出すとき、あの男の子の前で閉ざされた小さなガラスの扉のことを考える。終戦の年の冬の大連で私たちは飢えて貧しかったけれど、本もねずみもぶち込んでペチカもたいて、明るい電気の下で五人の子供たちは両親とともに笑うことだってあった。  暗くて寒い外から、明るい窓を通して見た私たちは、幸福な絵であったろうと思う。 [#挿絵(img/067.jpg)]      *  大学のとき下宿していた家の裏に、つぎ足したような部屋があり、そこの窓が、細い路地をへだてて、私の部屋と向かい合っていた。  窓ガラスに障子紙がべったりはってあった。あるとき、そこから女の人の叫び声が聞こえ、それは、いつかラジオで聞いた前衛音楽に似ていた。私はたった一度その声を聞いただけだった。一緒に住んでいた友達が、気の狂った人が病院から帰って来たのだ、と声をひそめていった。  ある日、白い障子紙に梅干しくらいの穴があいていた。唾液で紙をぬらして、指で紙をこすり落としたような穴だった。よく見ると、そこに人の目だけが見えた。  次の日、穴のところに、梅の花の形をした白い紙が重ねてあった。  別の日、梅の花は二枚にふえていた。物音は何もしなかった。ひっそりと静かな部屋の窓ガラスは、見る見るうちに、おびただしい梅の花が咲いていった。  梅の花びらと花びらの間に、黒く小さな穴があいていることもあった。  おおみそかの夕方、私は田舎に帰ろうと思い、あわただしくカーテンを引こうとして見ると、裏の窓の紙はまっ白な四角い障子紙に張りかえられていた。  私にはそのまっ白な四角い障子紙が、異常に不気味に思えた。狂った人の母親だろうか。毎日梅の花を根気よく張り、お正月のために律儀に白い紙ととり替えたのは。  もしも、透明に輝く窓ガラスに紙がはってあれば、小さな穴をあけて空を見たいと人は思わないだろうか。そしてその小さな穴から見た世界は、どんなに限りなく広かったことだろう。その小さな穴を、梅の花の形の紙で根気よく張っていった人の正常さは、不気味で異常だと思った。      *  郊外の駅を下りると、林が連らなって一面の雪だった。林の中の道を歩くと、木と木の間に小さな足跡があり、足跡は木の根もとで消えていた。りすの足跡を見たのは初めてだった。友達が交換留学生で下宿している家は、小ぢんまりしていて絵本のさし絵のようで、小さいと思った家は、玄関を入るとひろびろとしていて、豊かな生活というものがこの地上にあるものだなあと、私は目をむいていたにちがいない。  どうぞと居間に招かれたとき、私は息をのんだ。居間はとてつもなく大きなガラスが、天井から床まではめ込まれて、部屋の一面すべてが外へ向かって開かれていた。  ガラスの向こうに小さな湖が広がり、水のよせてくる雪のふりつもった白い地面から、何本も美しい針葉樹がまっすぐに立ち、かすんだブルーの夕暮れの中に、数羽の白鳥が水の上に浮いていた。その大きなガラスによって部屋の床はそのまま湖に連らなり、私たちは部屋にいるのではなく、美しい夕暮れの湖にいるのだった。  その湖の持ち主が、この家の主人なのだった。  このように美しい風景を所有している人がいることに私はとまどい、息をのむほどの湖と白鳥と数本の木だちは、「ちょっとごらんになる?」といわれて高価な宝石を見せてもらっているのに似ていた。ガラスを通したこの風景は、私には無縁であると語りかけていた。  それまで私が、窓から見える風景は誰のものでもないと錯覚していたのは、窓をささやかにくり抜くことによって、自然を少しだけ分けていただき、小さな四角い夕暮れや雲、そこをよぎるすずめや赤とんぼを、やはりどこかの小さな窓からながめているであろう人と共有するのだとおもっていたからだ。  あまりに大きな窓、壁全体が巨大なガラスで、風景そのものをのみ込もうとする意志は、私には、風景だけでなく、世界への冒涜のような気がした。 [#改ページ]  時は過ぎゆく  時を見た人はいないのに、とき[#「とき」に傍点]という名前をどうして人はつけることができたのだろう。とき[#「とき」に傍点]ということばができたとき、私がそこにいたら、私はそれを理解することは、とてもむずかしかっただろうと思う。  風を見たことがないのに、子どものときから風を知っていたように、子どものときから誰でも時を知っている。 「ちょっと待ってね」のちょっとも、「あさってのあさって」のあさっても、「むかしむかしあるところ」のむかしも、わたしたちは知っていた。  見えない時を時計で計ろうと思いついた人は、どうしてそんな正確なことが必要だったのかわからないけれど、きっと必要だったんだし、必要は発明の母だから、科学は便利のためにひたすら働いてきたのだから仕方がない。  私が一人で生きているなら、時計もカレンダーもなくても困らないけれど、人が大勢になればなるほど、正確で目に見えるものがたくさんないといけないのだ。  見えないものを見えるものに置きかえることがきっと科学なのね。 「あなた、いつ生まれたの」と言われたら、「もうずいぶん前」と答え、それで、どのくらいずいぶん前か顔を見ればたいていわかるし、あんまりくわしくわかっちゃいけないかも知れないし、そのずいぶん前が、人によって違っても、あんまりたいしたことではないような気がする。  ちょうどよい具合に時間が人に添っていることは、ほんとうにまれなことだと思う。  何かをやりたい人には、時間は足りないものだし、何もしたくない人には、時間はだぶついた洋服みたいなものに違いない。  一年一度の逢瀬を待ちこがれた七夕のお姫さまの一晩は、どんなに短い時だっただろう。  宇宙をかきむしってでも時の流れを止めたいときと、思い出したくもないつらいことがあるとき、地球をけとばしてでも早く時が過ぎてくれればよいと思うときと、どうして同じ時計で時をはかることができるのだろう。  生きていることと、時をついやすこととは同じことなのだから、時のない世界にゆくことはできない。  のびたりちぢんだりする時間の中で、私たちものびたりちぢんだりする。  私は何かを待つとき、いちばんあからさまに時と顔をつき合わせるような気がする。  七夕のお姫さまが、明け方、牽牛《けんぎゆう》と別れるときが、一年のうちでいちばんつらい時だったのだろうか。  その日、お姫さまはずいぶん泣く。一年のはるかな時を思うと、気が遠くなるようでも、その日は暮れて、次の日も暮れる。  三百六十日ぐらいはゆるやかに時間は変動してゆくけれど、もしも私がお姫さまだったら、最後の一日をどうしたらよいかわからない。  胃がのど[#「のど」に傍点]までとび出してきそうで、ごはんなんか何も食べられないし、食べないから、じき時間はあまっちゃうし、身づくろいなんか一週間も前からやっちゃっているのだし、もうほんとうに何もすることがなくてただ待つだけ、もう地球か天体か知らないけれど、微動だにしないにちがいなく、その時は永遠にこないのかもしれない。  でも私は、遠くから牽牛の姿が小さく見えてから手をふれあうまで、その時が、お姫さまにとって、いちばん耐えがたくつらい時なのではないかと思う。  ほんのもうちょっとというとき、私は待ちきれない。ほんのもうちょっとというとき、時は化け物のようになって私をおしつぶし、私は時をあやつり、コントロールすることなどできなくなる。  でも人生が、七夕のお姫さまのたった一夜だけが続いていたら、あっという間に一生は過ぎて、九十九まで生きたとしても、一瞬のようで、ずいぶん不満に思うだろう。  やはり耐えがたい長い時をいくたびももち、どうしてこんな長い時を生きていかねばならぬかと嘆くことがなかったら、ほどよい時の長さにならないのだろう。  朝顔の花が、たった一朝しかこの世を知ることがなくても、朝顔にとっては短くも長くもない完璧な時をもつことだろうし、何百年も立ちつづけた大木が朽ちて倒れるとき、何百年は長過ぎはしない。  人は時計を持って時をはかっても、それぞれの人にとって一秒は同じ一秒ではない。  同じ地球に生きていても、地球の動く速さはちがっていて、それぞれの地球の回り方をしている。  どんなにつらい時をもっても、人は時を惜しむ。それは時を惜しむのではなく、自分を惜しむことと同じかもしれない。  時は金なりということばを、私は好きではない。とても時間を大切にして無駄のない時間を使う人を、立派だなあと思っても、できたら私は、時間を無駄に過ごしたいと思うし、時間に追いかけられたり、時間を追いかけたりしたくない。  なじんだ洋服のように、自然に私に慣れてくれる時ばかりだといいと思うけれど、後悔にさいなまれるとき、私は過ぎた時をたぐり寄せて切りすてるか、もういちど上手にやり直そうとしているのだ。 「ちょっと待っててね」と小さな女の子を病院の松葉ぼたんの花壇のわきに待たせたまま、小さかった私は、母に手を引かれてそのまま帰ってきてしまった。  二度と会えなかったその女の子は、私の中で、しゃがんだまま、永遠に私を待ちつづけている。 [#挿絵(img/085.jpg)]      *  お正月の朝、目を覚ますと目を開けた瞬間から、お正月だった。日の光が、吸う息が、特別にお正月用になっていた。昨日とはすべてがちがう新しい日になっていた。  まくら元に新しい白い下着が揃えてあり、その下に、いちばんいい洋服がたたまれてあった。おぞう煮をたべる時、私はくんくんあたりのにおいをかいだ。  お正月の空気があたりいっぱいになっていて、世界中が真新しくなっているのがわかった。  そして私は一つ年をとった。家中が一つ年をとり、そのとった年は真新しいのだった。真新しい五歳、兄も真新しい七歳だった。  となりのひさえちゃんが、きんらんどんすの着物を見せびらかしに来た。  手には羽子板まで持っていて、その羽子板は、でっぱったお人形さんがついていた。でっぱったお人形は金色の長い帽子をかぶり、くねくねした手であごのところにしなを作っていた。そして、お人形のどこもかしこも布でできていて、布の中にふっくらと綿が入っていた。  私の羽子板は、おかっぱのお人形がべったりと印刷してある平べったい一枚の板きれなのだった。私はみじめな気持で、昨夜までよろこんで大事にしていた自分の羽子板をながめた。  ひさえちゃんはちっとでも身動きすると、シャラシャラチロチロ音がした。  頭にのりでかためたばかでかいリボンをつけていて、そのリボンに金色の小さな板とリリアンがぶらさがってシャラシャラ音がした。  胸に、小さな箱のようなさいふを半分だけ見せてさし込んであり、そのさいふには鈴がついていた。おまけに、足には、たたみのついたポックリをはいていて、ポックリの穴にも鈴がついていた。  私はしゃがんで、ポックリをのぞき込んだ。赤色と金色のはなおがついたたたみつきポックリほど、私を驚かしたものはなかった。私たちは羽根つきをした。ひさえちゃんは羽子板が重くてもちあがらないのだった。  そして、高いポックリで動こうとすると、ひさえちゃんはよろよろとよろけるのだった。  私は、たたみのついたポックリで、よろよろとよろけたいと思った。  そして、あたりはお正月の真新しい空気がただよっていた。  次のお正月、私たちは引っ越しをしてちがう町に住んでいた。雪のたくさん降る町だった。  お正月の朝、目をさますと、まくら元にポックリが置いてあった。  私はそのポックリを見て、シクシク泣き出してしまった。そのポックリはたたみがついていなかったのだ。  私はどうしても、丸くふくらんだ金色のししゅうがしてあるはなおがついた、たたみのあるポックリが欲しかったのだ。  父は当惑したような、腹立たしいような顔をしていた。あたりにはやはり、真新しいお正月の空気があった。  そして、いくつかのお正月を私は迎えた。白いおもちがなくなって、おわんの中でとけてしまうあわ[#「あわ」に傍点]のおもちをたべた。終戦の年のお正月も、真新しいお正月がきた。引きあげて、父の田舎で迎えたお正月、私は、もう新しい洋服も、新しい下着もなかったけれど、真新しいお正月の空気を吸った。  あるお正月、私は目を覚ました。ちょっと変だった。お正月なのに、昨日の続きの普通の感じがした。  いちばんいい洋服がまくら元にあった。でもそれは、いちばんいい洋服なだけだった。明るい日の光があった。それは、冬のある一日の日の光であった。あたりにお正月用の空気は用意されていなかった。私は、それがどうしてだか、わからなかった。お正月にはお正月の、特別の空気がぴんと冷たく張りつめてやってくるものだと信じていた。  新しい下着やいちばんいい洋服、おぞう煮や門松があるからお正月なのではなかった。新しい下着や門松や母の着物姿が、お正月の空気の中にあるから、お正月なのだった。  元旦の朝、真新しいお正月はやってくるのだった。三日目になると、お正月の空気は少し古くなるけれど、まだまだ普通ではなく、三日目の新しさなのだった。そして七日目ぐらいから普通の空気になり、私たちは七日目ぐらいにはもう普通の洋服を着ていて、そして、普通の日になってゆくのだった。  私はちょっと、自分が間違ったのかもしれないと思った。お昼ぐらいになれば、またあのお正月の感じがくるかもしれないと思った。お昼になっても同じだった。ただの普通のお昼だった。  私は、大事なものをどこかになくしてしまい、それはどこをさがしたらよいかわからないのだった。九歳の元旦だった。  そして私には、再びお正月の空気はもどってこなかった。  雪が降っていた。三階の私の部屋から下を見ると、去年からずっと降ったり止んだりしている雪がとけないで、前の家の庭につもっていた。道にうす茶色に汚れた二本のわだちのあとがあり、時どきフォルクスワーゲンが走って行き、あたりはしんとしていた。  私がベルリンに来て、一週間目で元旦だった。  元旦だからと特別なことは何もない外国の街を、私はむしろ不思議に思っていた。  私が見下ろしている町は、昨日の朝もその前の朝も変わらない、美しい外国の町だった。  黒い洋服を着たつえをもったおばあさんが、かごをもって、ゆっくり歩いていった。でも私は、朝めざめた時から気づいていた。あの幼い日の真新しい空気が満ちているのを。  パンに紅茶だけの寒々しい食事を台所でとっている時も、お正月用のあの空気が、私をとりまいていた。  日本のなつかしいお正月の習慣がなに一つ身の回りにない一人ぼっちの私に、見知らぬ外国の元旦の朝は、遠い幼い日、私が失ってしまった真新しい空気をよみがえらせてくれた。  もう二十年も思い出すことのなかった、ひさえちゃんのたたみつきのポックリが、鮮やかに思い出された。  お正月はただ日づけが新しくなるだけの外国では、なに一つそれらしいものはないのに、私にだけ、あの幼い日の新しいお正月がよみがえってきたのは、何だったのだろうか。      *  中学に入学した時、祖父にねだって時計を買ってもらった。  小さな小包が送られてきて、中に、もやがかかっているように光っている時計が入っていた。ピンクのビニールのバンドの色も、ぼんやりと淡い色をしていた。それは傷ついているわけでも古いわけでもないのに、何かもやにつつまれているようだった。  そして、十二時ちょうどで止まっていた。  何だか初めから元気で働く気がないような時計で、事実しょっちゅう止まって、私は四六時中、手首を耳もとでふりつづけた。  私が時計を欲しかったのは、時を知りたいためではなかった。時計という機械を持ってみたかっただけだった。一刻をあらそう時間など、必要ある生活ではなかった。  私は私の時計のようにうすらぼんやりしていても、一向にさしさわりがなかった。  さしさわりがないのに、私は自分の時計が律儀に働かないのを不満に思った。  私は叔母に、 「おじいちゃんがくれた時計、止まってばかりいる」  と言うと、叔母はさも重大な秘密をうちあけるように、 「おじいちゃん、質屋で買ったのよ」  と言った。  私は質屋というものを知らなかった。  大学に入ってから、私はいちばん安い時計を買った。いちばん安い時計は男物だった。安物の時計は、律儀によく働いた。  私はひどい貧乏学生だったので、月末になると、友達に借金をした。たび重なると私は気が重くなり、質屋に時計を入れようと思った。思ったが、質屋に入るのは大変な悪いことで恥ずかしいことだと思った。  私は質屋の前を行きつもどりつして、質屋にとび込んだ。  質屋は三千円の時計で千円貸してくれたが、私は、それは不当で、三千円だから三千円貸してくれるべきだと思った。  そして一週間ほどして、千円を持って時計をひき出した。  それをくり返した。私の時計は、質屋から戻ってくるたびに、少しずつうすぼんやりともやがかかるような気がした。そして、律儀な時計は、あまり律儀でなくなってきた。  私は質屋が何かするのではないかと疑った。質屋に通っている間じゅう、私は質屋というものは、ごうつくばりでけちで、陰険にちがいないと思っていた。  私が祖父にもらった時計も、質屋が何かしたのかもしれないと考えた。  それから何年もして、私は突然、あの質屋が利子をとらなかったのではないかと思いあたった。それに、三千円の中古時計に千円貸してくれるのも貸しすぎではなかったか。  恥ずかしさが体中かけめぐった。  あの時計は質屋にいる間じゅう、持ち主の私のことを恥じていたのではないか。ピカピカ光っていていい身分ではないと、ひたすら恐縮していたのではないか。そして祖父がくれたあの時計も、質屋の暗いどこかで、恥ずかしさの時を刻みくたびれたのではないか。  私が何よりも恥ずかしかったのは、質屋のやせてめがねをかけた親父をうさんくさく思いつづけていた時よりも、それをすっかり忘れてしまっていた年月だった。その年月は時計が刻みつづけた時とはまったく別の、空白の年月であった。  今、その空白であった年月に、私の恥ずかしさがびっしりとつめこまれた。  私はそのように忘れ去られた空白の年月に、さまざまな恥ずかしさを沢山つめこんで生きつづけているような気がする。      *  私は時計との相性が、どうもいつもよくなかった。  家にある柱時計は正確であったことがなかった。私は時計を見て、あわただしくたし算やひき算をする。  中学のとき初めてもらった質流れの時計は、初めから十二時で止まり、動き出しても、気がつくといつも十二時で止まっていた。  外国へ行く時、友人の母親の時計をもらった。それも、船の中で酔っぱらったみたいに、進み具合がゆらーりゆらーりとしていた。  メキシコのお土産に、派手な金の輪をつけた紫色の大きな時計をもらった。文字盤も深い紫の大理石で、とても美しかった。その時計は、短針が一本しかなかった。  私は私のようないいかげんな人間にひどく大ざっぱな時を示す時計を気に入って、しばらくその時計をしていた。その時計をしている間じゅう、時はとても大らかに私をめぐった。一時間や二時間のちがいがいったいなんだという風に、二十四時間は、大かた朝、多分昼、そろそろ夕方、それからずっと夜、ということをわからせてくれた。  私はそれで何の不自由も感じなかった。  ある時、それをくれた友人に、こんな時計を売っているメキシコという国はさすがで、私はメキシコで幸せに暮らせそうな気がすると言った。友人は不思議そうな顔をして、私の時計をのぞきこみ、 「あら、ここに長針が落ちている、これ最初からこわれてしまっていたのね」  と言った。  そのこわれていた一本針の時計が、私はいちばん好きだった。  ある時、私はデートに出かけた。  腕時計はこわれてしまっていて、私は時間に遅れて行きたくなかったので、めざまし時計をかごに入れて出かけ、石のベンチに坐っていた。  明るい太陽とプラタナスのゆれる小さな広場の噴水の前で、時は止まっているようだった。  突然かごの中のめざまし時計が鳴り出した。大きなめざまし時計を私はかごからとり出して、押し忘れたボタンをおさえた。  その時から、どこからともなくチクチクと、一秒きざみの時が発生してきた。  ゆったりと私のまわりで幸せに流れていた時間が、チクチクと一秒ごとに分断される。持ってきたプラムにかぶりつくのでさえ、チクタクチクタクせわしなくせっつかれているのだった。「俺たち金持だったらなあ」チクタクチクタク。「赤い小さな車を買ってさあ」チクタクチクタク。「海を見せにつれていってやれるのになあ」チクタクチクタク。  かごの中でスカーフにぐるぐる巻きにされた時計の音がきこえたわけではない。時計がベルを鳴らして自分を主張した時から、時はチクタクチクタクと世界を支配しはじめた。  私は追いたてられて、日の高い広場からボーイフレンドとさよならをした。  ちっこい機械が悠久の時間を支配すべきだろうか。それも、チクタクチクタクとみみっちい音をたてて。  私は時計を持っていない。 [#改ページ]  とどのつまり人は食う  私たちは、毎日コーリャンのおかゆを食べていた。コーリャンを洗うと、水はまっ赤になった。赤い水が出なくなるまで洗っても、コーリャンはコーリャンくさいのだった。  あるいは、黄色い粟をたいて食べた。粟を水で洗うと、中身のはいっていないから[#「から」に傍点]がふわふわ浮いて流れ、水の底に沈む粟だけを残すと、半分以下になってしまった。あるいは、麩《ふすま》の団子を食べた。私はふすまが何であるか知らなかった。だからずっとあとまで、襖の紙を粉にしたものだと思っていた。  ある日、やぶれかぶれになったのか、何か特別の日だったのか、両親が山ほどのぼたもちを買ってきた。サッカリンという頭痛薬のような白い錠剤が砂糖がわりだったときに、本物の砂糖を使った、粟でない本当のもち米で作ったぼたもちは、信じることの出来ない奇跡だった。  もうそれ以上食べられないのに、ぼたもちは、まだ残っていた。  私は満腹してトイレに入った。  トイレから出てきて、手を洗いながら、私はしみじみ満ち足りていた。また、ぼたもちが食べられるとは思わなかった。タオルで手をふきながら、私は、「なんて幸せなんだろう。いま手を洗っているこの時が幸せなのだ。この幸せをいつまでも忘れないようにしよう」と思った。  板の間に片足をかけながら、私はその片足をよく見、洗った手をゆっくり見た。  私がはじめて鮮明に「幸せ」を自覚したのは、七歳のある、ぼたもちを腹いっぱいたべたときだった。      *  デパートの食品売り場で、友達の奥さんがエボダイ二匹を買っているのを見たとき、私は悪いところを見てしまったと思った。  レストランで、スパゲッティを口に入れようとした瞬間、まっ白いワンピースを着て入口から入ってきた知人と目が合ったとき、私はとても恥ずかしいと思った。  叔母の家に下宿している頃、 「お昼なににしようか」  と聞いたとき、 「いやねえ、食べることばっかり気にして」  といわれて、私はふるえるほど恥ずかしかった。  高校へ入学してはじめての昼休みだった。女子校で、まだ名前も知らず、真新しい紺色のセーラー服の背中が並んでいた。  それぞれが、弁当を机の上に置いて、教室はシーンとして誰も弁当に手をつけないのだった。  教室はせきばらい一つおこらず、空気が微動だにしなかった。  教室中が、おべんとうを食べるのは、恥ずかしい恥ずかしい、下品だ下品だ、といっていた。  弁当をごく普通に食べるきっかけを失ってしまったのだ。  長い時間だった。 「いただきまーす」  私は声をはりあげた。恐ろしく勇気がいった。  教室の空気が一瞬にしてくずれた。くすくす笑い声が起こり、それは明らかに私の下品さを非難し、それによって救われた笑い声であり、私の勇気をたたえ、そして、永久に私を軽くみなすことにした笑い声だった。  私は腹を立てていた。弁当を食べることを恥ずかしがるなんて、馬鹿げていると思った。誰かが食べれば自分も食べるというのはひきょうだと思った。  それでも私は、知らない人たちが集まって、緊張した女学生が、自然にものを食べるきっかけを失ったとき、食べることは恥ずかしいと思うことを、どこかで納得していた。      *  私の友だちの恋人は、私の友だちでない人と結婚することになってしまった。彼女は夜中に私を訪ねて来て、タオルケットにくるまって泣き、私は友だちの恋人に腹を立てて、そんなことになるような曲がりくねった時間を持ちつづけた友だちを責めた。しかし、どうにもならないことなのだった。友だちが巻きつけているタオルケットを引きはがして、私は何もしてやれないので、タオルケットを引っぱり合いながら、私も泣いた。泣きながら、彼女は、 「おなかすいた、何かない」  といった。  次の朝、「あんなのばっかが男じゃない。世界の半分は男だ。街へ出て気分を変えよう」と私は彼女をはげました。バスの中で彼女は、ボロボロ涙を流し、「もう一度会ってみる」と鼻をかんだ。しばらくすると、「やっぱりやめる」とゆれ動いた。彼女は道の真ん中にしゃがみ込んで、おし殺した太い声で泣きだし、歩く人がみんな見た。立ち上がりながら、 「おなかすいた、焼き肉が食べたい」  と彼女がいった。  焼き肉屋で、彼女は首にかけた紙のエプロンをペッタリ顔におしあててしゃくり上げていた。  彼女は二人分の肉を、紫色のけむりの向こうで、ほとんど一人で食べ、もう二人分追加した。私の食べのこしたごはんも食べ、追加した肉をあっという間に平らげた。  焼き肉屋を出てすぐ、 「ケーキが食べたい」  といった。それは空腹を満たす食べ方ではなかった。何か不気味な力に支配され、彼女のものではない、胃袋ではないものの中に、シャベルで何かを一心不乱にほうり込んでいく作業だった。  壮烈に荒れ狂った食欲が、彼女の悲しみの深さだった。 [#挿絵(img/099.jpg)]      *  ハンブルクの空港で時間待ちをしている時、ベンチの隣りに坐っている人と私は話をした。  その人はドイツの食べ物の話をした。もう初老といってもいいぐらいの日本人で、どんな仕事をするのか、ずいぶんいろんな国の、それも食べ物のことばかり話した。  そして魚の話になった。私は子供のころ食べた、さんまめしの話をした。 「どうやって作るんですか」  とその人はいった。 「丸ごとのさんまをお釜に入れて、にんにくの葉っぱを、ざくざく切って、しょうゆ味でたくのです。たき上がって、頭をもち上げると、骨がきれいにとれます。はらわたもいっしょにまぜて食べるのです」  と私は答えた。 「うーん、それはうまそうだなあ。わたしは、さばの味噌煮が好きでね、大根と一緒に煮たやつです。小ぶりのさばをつつ切りにしてね、大根といっしょに味噌で煮るんです。弱火でコトコト。少し甘いほうが好きでね」  私はさばの味噌煮が食べたくなった。茶色にすきとおる大根までが目にうかび、口じゅうがよだれだらけになった。  その人の飛行機が先に来て、 「いやあ、そのさんまめし、うまそうだなあ」  といいながらいなくなった。名前も知らないし、どこへ行くのかもきかなかった。  私はベンチに坐って、日本へ帰ったらさばの味噌煮を作ろうと思った。  何年たっても、ときどき私は、さばの味噌煮が食べたくなった。すると、「いやあ、そのさんまめし、うまそうだなあ」といったその人と向かい合う。空港で、誰とも知らぬその人とさばの味噌煮とさんまめしを間にして、私たちはみじかいふれ合いを持ち、顔も思い出せないその人と、私はときどき心うれしい時を持つ。      *  引き揚げ船の中で出された初めての食事は、さばと大根の入っているおじやだった。巨大なたるの中にそれは入っていて、大きなひしゃくで、家族が持ってきたなべの中に流しこまれた。  そのおじやが米であることに、私たちは感激した。おじやはねっとりして甘かった。パサパサしたコーリャンのおかゆや、とうもろこしの団子を食べていた私たちに、米のねばりは、心からの充足と、これから帰る日本への希望を与えてくれた。私は次の食事を待ちのぞみ、アルミのおわんを、洗う必要のないほどなめつくした。  私はその食事以外に何ものぞまなかった。  貨物船の船底は荷物がびっしりとうまり、その間に、人が荷物によりかかって坐っていた。荷物によりかかって人々は眠り、昼も同じ姿勢でほとんど身動きが出来ないのだった。  私のとなりに、ひどく年とった老婆がいた。彼女は小さくまるまってうずくまっていた。彼女は歩けないほど年とっていたので、甲板のトイレに行くときは、息子の背中にくくりつけられた。彼女はうずくまったままボソボソ何か言っていた。いつも同じことを言っているのだった。 「おすしが食べたいよう、おすしが食べたいよう」 「内地にかえったらね」  息子の奥さんがいう。 「おすしが食べたいよう」 「もうすぐだからね」  それでもおばあさんは根気よく、「おすしが食べたいよう」をくり返すのだった。  あんなおいしい大根とさばのおじやがあるのに、私はおばあさんがぜいたくでわがままだと思った。  ある朝、目がさめると、私の横に灰色の毛布でくるくる巻かれたものが横たわっていた。毛布の両はしがひもでしばってあった。昨夜、私が寝ているうちに死んだおばあさんだった。二日ほど、毛布でくるまれたおばあさんは私の横にいた。海の様子が悪くて、船はなかなか日本に着かないのだ。息子はおばあさんをかついで、甲板に上がっていった。  はしごをのぼってゆく息子は、巨大なのり巻きをかついでいるようだった。海に捨てにいったのだ。  気が向けばすしが食べられる今、私はすしを食べながら、つるつる氷ですべる甲板から暗い海へ捨てられた老婆を思い出し、罪悪感を持つ。 [#改ページ]  はるかなる男友達  私がいちばん初めにお嫁さんになろうと思ったのは、光伸ちゃんだった。私は兄より外に男の子を知らなかった。  光伸ちゃんは父の友人の子供で、兄と同じ年で、同じ幼稚園に行っていた。  光伸ちゃんは一人っ子で、色の白い美しい子だった。一人っ子はもらい子だと思い込んでいたので、私には光伸ちゃんが淋し気で上品に思えた。  小学校に行くようになると、母と光伸ちゃんのお母さんは、どこかで張り合っていたような気がする。  光伸ちゃんは洋服がよごれるので、兵隊ごっこはやらなかった。私はシミ一つない洋服を着ている光伸ちゃんのお嫁さんになりたかった。でも、光伸ちゃんが私をお嫁さんにする気などまるっきりないのが、私にはわかっていた。私は自分がもっとかわいかったらよかったのにと思った。  終戦になり、引き揚げがあり、私はそれっきり光伸ちゃんに会っていない。  引き揚げて二年目に兄が死んだ時、桑名にいる光伸ちゃんから、秀才らしいおくやみの手紙が両親にきた。  それが最後のかかわりだった。  その後、光伸ちゃんが東大に行ったというのは、風のたよりだった。私はそれを知った時、兄が死んでいたことに、少しほっとしたような気がする。生きていたら、兄は東大に行けただろうか。  その後父が死んで、風のたよりもとどいて来なかった。  私はベルリンで、友人の下宿に居候《いそうろう》していた。友人とは知り合って間もなかった。  夜ベッドでトランプをしながら、私たちは初恋の話をした。彼女は高校の時の恋人の話をした。 「私たち、白くまと黒くまって言われたの。私が黒くまよ。私と彼がいつも一番か二番だった。でもね、私あのお母さんがきらいでね。彼東大に行ったけど」  私はそれが光伸ちゃんのような気がした。 「あなたどこ」 「桑名」 「その人、光伸ちゃんだ」  あんなに驚いたことはない。私が光伸ちゃんと最後に会ってから、すでに二十五年たっていた。  白くまみたいな光伸ちゃんは、私の知らない人だった。私が知っている光伸ちゃんは、泊まりに行って同じふとんの中で私をけとばし、私がけとばし返した小さな男の子だった。  知らない人のまま光伸ちゃんは二十五年間生きている。  彼女もまた光伸ちゃんとは遠くなっていたままだった。 「はは、二人で会いに行ったら驚くね」  会いに行く気は、二人ともないのだった。  それから何年かたって、私は新聞で光伸ちゃんの名前を見た。記事は、エリートコースを捨てて、東北の伝統芸能を伝える一座に家族もろともに移り住んだ人を紹介していた。  わずか五行か六行の消息を、私はじっと見ていた。私が最後に光伸ちゃんを見てから、三十年たっていた。  一ダースの鉛筆を一本もくれなかった光伸ちゃんが、すべてが共有財産である共同体の中で生きている。それは三十年の年月を生き続けている人間の重さと、歳月の重さだった。  五行か六行の新聞記事は、風のたよりだった。  ベルリンの友人の話も、風のたよりと同じだった。  また何年かして、私は光伸ちゃんの風のたよりを聞くような気がする。      *  母がうちの裏の草を抜いておくようにと言った。とても暑くて、私は遊びたかったので、くわを持ってきて、畑をほりかえして、草をぜんぶうらがえしにしておいた。一本一本抜いていたら四、五時間かかるところを、三十分で畑を、草一本見えないようにした。母が畑を見まわりに行き、私を畑に連れていって土くれを一つひっくり返すと、青々とした草が現われた。  母は私を板の間にころがして、けとばした。私はころがりながら、私のお母さんはまま母なのかもしれない、そしてまま母なら、私は可哀そうないじめられる子供になれるのにと思った。母は仁王立ちになって、 「わたしをだまそうとしても、そうはいかないわよ」  と気持よさそうに言った。そしてその顔が、私に似ているのだった。  兄が魚つりに行き、うすぐらくなっても帰って来ないと、母は富士川の川原をよろめきながら、兄の名前を高いかすれた声で呼んだ。夕暮れの中を遠くからつりざおをかついだ兄が小さく見えると、ふーとため息をついて母は立ち止まり、それまでは兄が川でおぼれ死んだらどうしようと思っていた私は、安心すると、お兄ちゃんばかり心配するから、お母さんはまま母かもしれない、と思った。しかし私は魚つりになど行かないのだった。  ある日母は、とてもはしゃいで父に言っていた。 「失礼しちゃうわ、山羊のおちちをもらいにいったら、あそこのおばさん、あんたも若いのに気の毒だね、あんな大きな子がいるところに後妻に来たのかねって言うのよ。わたしのこと二十五だと思ったんだって。ほんとうの子供だって言ったら、驚いていたわ」  母が若く見えるということに、父もうれしそうににやにや笑っていた。事実母はひどく若く見えたし、そのころまで私は母が美人だと思っていた。まま母だとまちがえられた母があんなにうれしそうにしているのは、どう考えてもほんとうのまま母のはずがなかった。  そして近所に、ほんとうのまま母がいた。その家族も子供が五人いて、どこかからやって来た人たちだった。上の三人の男の子がご主人の連れ子だと言っていた。そこの小母さんは、もの静かな人で、どこか淋しそうな感じがした。その人が子供をどなったり、せっかんしたりするのを私は見たことがないのに、まま母だから、私の知らないところで、あの人はまま母のようにしているのかもしれないと思った。  そこの家に遊びに行くと、男の子が四人もいるのに、あまりそうぞうしくなく、どの子も小柄で、たしかに上の三人の男の子は、同じ三角形の頭をしていて、下の二人は丸い頭をしていた。  正明ちゃんは中学生だったけれど、小柄のせいで、あまり年上に見えなかったので、私は正明ちゃんとよく遊んだ。古ぼけた、角がぜんぶめくれてしまっている本を読みながら、お風呂番をしている正明ちゃんの横で、私はかまど口に入れる杉の枝を手わたしたりしていた。その本には、外国のどこかの湖に、生きたがいこつが、そばを通る人においでおいでをして、通る人を湖にひっぱり込み、ひっぱりこまれた人もがいこつになって、またおいでおいでをするのだと書いてあると、正明ちゃんは小さな声でひそひそ私に言った。「うそお」と私は驚き、私が「うそお」と言う時は、「ほんとう?」と大いに感心している時だった。  そのとき正明ちゃんはさっと本をおしりの下にかくして、さっきからこうしていましたよというように、両足に手を巻いた。小母さんが畑のなすをとりに来たのだった。まま子だから本をかくすのだ、正明ちゃんは見つかったらぶたれるのだろう、と私は思った。  ある夏の夕方、正明ちゃんが家に遊びに来ていた。私は何故だかパンツをはいていなかった。そして私は正明ちゃんに、ガラス玉のもも色の首かざりを見せていた。それはどぎついもも色なのに真珠のように光っていて、私がもっているただ一つの宝石だった。  これはにせものだ、うちのお母さんは本物の真珠を持っている、見せてあげる、と正明ちゃんは言った。私は見に行こうと思い、妹をおぶった。すぐに真珠を見たかったので、パンツをはいていないままで、正明ちゃんのあとを歩き出し、ずり落ちる妹をずり上げると、スリップ一枚しか着ていない私のおしりは丸見えになった。 「あたし、パンツはいて来なかった」 「いいよ、おしゃれなんかしなくても」  私は正明ちゃんがやさしいと思った。正明ちゃんは、お母さんがもっといろいろな宝石を持っている、と歩きながらいった。それは宝石の自慢ではなくて、お母さんを自慢しているようだった。 「洋子ちゃんが真珠を見たいんだって」  正明ちゃんは、何だかお母さんのごきげんをとるように言った。お母さんは、たんすの中から小さな箱を出して、指環を見せてくれた。 「これが本物だよ」  正明ちゃんはうれしそうに言った。本物の真珠はにぶく光っていて、私が首にぶらさげて持ってきたにせもののほうが、ピカピカ光っていて、私にはずっときれいに思えた。でも私はパンツをはいていないおしりが気になって、片手でスリップを押さえているので、落ちつかなかった。 「ほら、ちがう指環を持っていたじゃない」  お母さんはまた、ちがう指環を持ってきて、 「わたしは少ししか持っていないわ」  と茶色い石のはまった指環を持ってきた。茶色い石など、私はきれいだと思わなかった。 「でも、ほかの人にくらべたら、お母さんは持っているほうだよね」  正明ちゃんは一生懸命に言っているみたいだった。 「みんな売っちゃって」 「いいものはみんな売っちゃったんだよね」  正明ちゃんは、指環をさわろうとした。小母さんはその手を静かにはらいのけた。正明ちゃんは、素早くお母さんの目を見て、わたしの目を見た。私の母親だったら、「さわるんじゃない」とピシャッとたたくかもしれなかった。静かに手をはらいのけられた正明ちゃんを見て、私はドキッとした。  指環を見せてもらっている間じゅう、私がいごこちが悪かったのは、パンツをはいていない緊張感だけではなかったのかもしれない。      *  私は小学校は四回変わった。子供は学校へ行くことに疑問など持たなかったから、あらゆる情況を受け入れ、自分もまた情況をつくり出していた。  小学校の五年の二学期に、私は引き揚げ先の父の田舎から、静岡の小学校に転校した。  転校した日に、書き取りのテストがあった。班長が赤エンピツで丸をつけるために集めた。班長の岩崎君は、私のテストをじっと見た。そしてぜんぶ丸をつけて、私をにらみつけた。私は百点だった。岩崎君も百点だった。  お弁当を食べ終わると岩崎君は、 「サノ、ちょっと来い」  と言った。坊主頭で、色が黒い岩崎君は、ダブダブの黒いズボンをはいていた。  岩崎君は私を、学校の裏の土手につれて行った。そして、大きな松の木に私を押しつけて、両足をふんばって、私のほっぺたをはったおした。  それから、私は岩崎君のあとについて土手をおりて、二人で並んで下駄箱で靴をぬいで、教室にもどった。教室を出てからもどるまで、二人とも終始無言だった。私は泪が出そうだったが、まばたきをしないで、泪をかわかした。  なぐられて痛かったから泪が出てきそうになったのか。でも、こらえ切れないほどの痛さではなかった。口惜し泪だったのか、屈辱の泪だったのか、わからない。岩崎君を憎いと思ったか。思わなかった。ひきょうな奴とさげすんだか。さげすみはしなかった。  私はそれを、逃れられることとは思わなかった。さけられないことであり、岩崎君もさけられないことをなしたのだと、私には思える。  私は教室にもどって、じっと坐っていた。  ヒロちゃんが、私の顔を見てニヤニヤ笑っていた。ヒロちゃんは私の隣りの席で、家が近かったので、私は引っ越してすぐ夏休みじゅう一緒に遊んでいた、クラスの中で唯一の知り合いだった。  同じ班のヒロちゃんは、岩崎君が私をなぐったことを知っていた。私はヒロちゃんが、いい気味だというようにニヤニヤ笑ったことに腹を立てたか。腹は立てなかった。ヒロちゃんもまたニヤニヤ笑って私を見ることは、さけられない当然なことのような気がした。ヒロちゃんがニヤニヤ笑うのも、儀式の一部のようなものだったにちがいない。このことは多分、岩崎君と私とヒロちゃんだけが知っていたことだった。  私は、私と岩崎君が教室を出て行ってからもどって来るまで、ヒロちゃんだけがそのことのなりゆきに気をもんでいた人だったと思う。クラスじゅうの男の子や女の子が立ちさわいだり、外へ飛び出したりしていたのに、ヒロちゃんだけは自分の席に坐って、入口から入って来る私たちを待ち受けていた。  多分岩崎君は、「やったぜ!」という風に堂々と教室に入って行ったと思うし、私は、「やられたよ、これでいいんでしょ」という風に、がんばって岩崎君のあとを歩いていたんだと思う。そしてヒロちゃんは、ニヤニヤ笑うという自分の役割を果たしたのだ。  私は次の日、学校へ行きたくないなどとは思わなかった。  岩崎君は次の日、私に優しかった。どうして優しいのか、私は諒解した。私はその諒解をぐいっとつかんで、おしりの下に押し入れるようにした。私は勝ち誇った顔をしたのかもしれない。  私は自分の足場がかたまったこと、私はもはや転校生ではないことを知った。私はすっかり学校になれていった。  その日からどれぐらいたっていたか覚えていない。一週間ぐらいか、あるいは三か月ぐらいあとだったのか、昼休みに、岩崎君が大きな声で言った。 「サノはなぐっても泣かないぞ。やってみろ」  男の子が集まってきた。 「ためしてみようぜ」  私は教室のうしろのはめ板のところに押しつけられて、男の子に囲まれた。一人ずつ私の前に来て、私をはったおした。何人ぐらいになぐられたか覚えていない。 「ほんとうだ、泣かねえや」  私は頭をふり立てて席にもどった。泪が出そうだった。何の泪か。今度は口惜しかった。しかしそれ以上に、恥ずかしかった。大勢の前でなぐられたことが恥ずかしかった。私が悪いか。悪くなくても、人前でなぐられることは恥ずかしかった。  裏の土手の松の木にへばりついてなぐられた時は、恥ずかしくなかった。  今度も泣かなかった。  入れかわり立ちかわり、泣かない私を見に来た。恥ずかしいことだった。「泣かない私」は見せ物だった。私は奥歯を強くかみ合わせて、頭をふり立てて真正面を見ていた。実に不当だと思ったが、その時でさえ、私は岩崎君が憎いともひきょうだとも思わなかった。「ためしてみようぜ」と私をはったおした男の子たちのことも、さげすみはしなかった。  なぐっても泣かない女の子なら、なぐって何が悪い、と彼らは思ったにちがいない。泣かないから、かわいそうではない。弱い者いじめではないではないか。  今でも私は、自分がかわいそうだったとは思えない。いじめられたとも思わない。なぐっても泣かない女の子は、なぐってもいいのだ。  岩崎君が、どうしてみんなに私をなぐらせたのか、わかるような気がする。私は松の木に押しつけられてなぐられた時、泣くべきだったのだ。  岩崎君は、なぐったのに泣かなかった私に、収拾がつかなくなったのだ。しかも、なぐったという事実は消せなかった。彼は共犯者をつくることで、自分のなぐったということから軽くなりたかったのだ。私が泣けば、泣くということで岩崎君を責めることになり、責められることで彼は、落ちつくべきところに落ちつけたのだ。  私は岩崎君を、いやな奴だと一度も思ったことはない。十一歳の男の子として、彼はまるごと十一歳の男の子であった。十一歳の男気にあふれてい、十一歳の男の子として充分な人間らしさを持ち合わせ、充分に優しかった。  なぜなら、その後、彼はなぐっても泣かなかった私を、なぐっても泣かなかった故に、うやまってくれたような気がするのだ。  学校は楽しかったか。  楽しかった。 [#挿絵(img/117.jpg)]      *  私は初めてツチヤ君を見て、呆然とした。中学生になったばかりの時だった。快活な美少年で、秀才で、スポーツマンだった。いろんな小学校から、まぜこぜに集まった子供たちの中で、彼はとび抜けて素敵だと、私には思えた。私はあんな素敵な人のそばに、ちょっとだけ行って、ちょっとだけ話なんかしたいと思った。中学生になりたての幼い気持で、幼いなりの好色さで、遠くからツチヤ君を見ていたのかも知れない。  国語の時間に、「私の友達」という題で作文を書いた。ツチヤ君と同じ小学校から来た美少女が、「ツチヤ君」という題で作文を書き、立って読んだ。ツチヤ君がどんなに勉強が出来て、どんなに素敵なピッチャーであるか。「私のいちばん大切な友達はツチヤ君です」——。気が付いた時、教室はひどい混乱だった。男の子たちはピーピー口笛を吹き鳴らし、女の子は、「すごーい」と言い合った。私は美少女を羨《うらや》んでいた。  ツチヤ君はまっ赤な顔をして下を向き、美少女は泣きだしてしまった。授業が終わった時、先生は二人を職員室に呼んだ。私は胸がドキドキした。二人は先生に叱られるのだろうか。それとも先生は二人をはげましたのかもしれない。私はピーピー野次った男の子達を憎んでいた。ツチヤ君がもどって来た時、教室はシーンとした。ツチヤ君は、異様な人になってもどって来た。ツチヤ君はカバンをつかむと、ドアを強く音たてて、出ていった。  今まで、時々は美少女と下校していたツチヤ君は、もはやどの女の子とも口をきかなかった。彼は急に背が伸び、肩には固い丈夫そうな材木が組み込まれているようになり、髪の間から、あらゆるものをジロリとにらんだ。  上ばきのかかとをふみつけてズルズル歩き、今までは、肩からななめにかけていたカバンをわきにかかえ、ばかでかい弁当を不機嫌に食べた。不機嫌のかたまりだった。そして相変わらず、恐るべき秀才だった。めんどくさそうに机にひじをついたまま手をあげ、さされるとなげやりに、しかも正確に答え、図書館に入りびたり、田山花袋などという本をかかえていた。そして二年が過ぎた。誰ともほとんど口をきかないツチヤ君に、ただ一人、青白い下がり目の、ガリ勉の文学少年のような男の子が、ぴったり側にいるようになっていた。  彼らは明らかに勉強のライバルらしかった。あるいはもっと親密な友情が成立していたのかもしれない。ツチヤ君は彼に向かって、ほんの少し笑ったりさえしていた。ツチヤ君が笑うと、私は、安心のような淋しいうらぎられたような気がした。  中学三年になった時、私は、その青白い、鉄棒のさか上がりも出来ない文学少年に熱を上げることにした。  熱を上げるといっても、ただひたすら一方的に熱を上げるのである。時々、教室の入口でぶつかったりするのが、胸もはりさけんばかりの大事件であり、図書館の本を片はしから調べ、青白い下がり目の男の子の名前が書いてある貸し出しカードをさがした。そしてその本だけを借りるのが、重大な秘密だった。  私はチラチラと青白い下がり目の男の子を盗み見た。すると横にいるツチヤ君が、ジロリとにらむのである。その恐ろしさといったらなかった。べつにツチヤ君は、特別に私をにらむのではない。もはやツチヤ君の目付きは、それが正常なのである。黒板を見る時でさえ、ジロリと見るのである。そのジロリの中に、私などがうかがい知れない苦悩があるような気がした。その苦悩は高尚で深遠で、ふれてはならぬものであるにちがいなかった。  青白いうらなり大福のような男の子を盗み見る時ジロリとやられると、私は打ちひしがれた。その目付きの中に、ありとあらゆる拒否が含まれていると私は感じた。オマエなんか見るのもけがらわしい、ブス、オッチョコチョイ、いるだけでも許さない、とその目付きは言っていた。私はたちまち私の存在そのものに嫌悪感を持ち、みすぼらしくがさつな私を、ありありと感じずにはいられなかった。  私は大いそぎで、「ち、ち、ちがいます。私はおそれ多くも、あなた様なんかに思いをかけていないからね。そんな図々しくないからね。それだけはわかってね。ホラ、ホラ、こっちの方、こっちの青白いうらなり大福の方だからね」と心の中で叫ばなくてはならなかった。うらなり大福もちにしても、身分違いの秀才であり、私の思いが成就する道理もないのだった。  私はたびたび考えた。あの美少女は今でもツチヤ君を愛しているにちがいない、そしてツチヤ君もあの美少女を愛しているのだ。  私はツチヤ君とは勿論、うらなり大福とも口をきかずに卒業した。  大人になって、私はべつに男の人が恐ろしいと思ったりしなくなってきた。入れ墨のクリカラモンモンのおにいさんとだって話をしたし、大学の学者先生と冗談を言うことだって出来た。しかし、時たま、電車に乗って学生服を着た中学生を見ると、私はふるえあがるように今でも恐ろしいのである。もしかして、あの中にツチヤ君がいるかもしれない。あの中のツチヤ君がジロリと私をにらみ、不可解な不機嫌さで、私の前を通るのではないかと恐れる。そして確かに、その中にツチヤ君はいるのである。  ツチヤ君は私の中で、完璧な男としてのイメージを具現した人なのだ。  不可解な不機嫌さというものは、多分私が男というものに対して持った憧れであり恐れであったのだ。だから、私は、あの青白いうらなり大福に思いをかけたのだ。ツチヤ君は象徴であって、実体ではなかったのだ。 「大海のしほひて岩となるまでも君はかはらぬ君にましませ 西行」とうらなり大福は、卒業のサイン帳に文学少年らしい文句を書きつけてくれた。      *  いつも私は貧乏だったけれど、大学時代はひどい貧乏だった。大学に入学する年の元旦に父が死んで、私は四人兄妹の長女だった。大学に行けるだけで贅沢で、人より少ない仕送りで、それもそれまで仕事をしたことのない母が、小さい妹や弟たちを抱えて働いていることを考えると、自分が上京して大学にいることがひどくとがめられ、お金が足りないなどと言えたものではなかった。母はそれでも大学をやめて働いてくれとは言わなかった。母の後家のくそがんばりなのか、あるいは父が、「お前はきりょうが悪いから、嫁のもらい手はあるまい。何か手に職をつけておけ」と口ぐせのように言っていたことを、父の遺志と思っていたのかもしれない。  冬は靴下をはかずに靴をはき、遊びに行った友達のお母さんが、お歳暮の男物の靴下をくれた時は困ってしまった。靴下をはかなかったのは、節約の意味もあったけれど、容姿に自信のない私が、唯一自慢に思っていたのはスンナリした足首だったので、大いにイキがっていたこともあるのだ。一年じゅうデニムの三角のスカートをはいていたのは、他のスカートがなかったせいでもあるけれど、冬でもデニムを着ていることがかっこいいとも思っていたのだ。  そんなに貧乏だったのに、私はあきれ返るぐらい元気だった。恋人などというしゃれたものはいなくても、私の周りには、気のおけない、尊敬出来たり出来なかったりする男友達がたくさんいた。それでも時々、あんまり色っぽい話が起こらない私を、 「次郎長、もうちょっと待ちな。今はまるきりだめだけど、二十七になると、お前はいい女になるよ。その時は、安物でなくて仕立てのいい洋服が似合うよ。二十七まで辛抱しな」  と、なぜ二十七なのかさっぱりわからないのに励ましてくれる男友達もいた。  なのに私は二十七までなんか待てなくて、仲間の一人を好きになってしまった。  私は女の子の中でいちばん背が高くて、彼は男の子の中でいちばん背が低かった。彼はどんな時だって課題をきちんとやり、私は課題をやり始めても、四枚も五枚も失敗して、結局間に合わなかったり、間に合っても何だかはみ出したり、絵具がはがれたり、クラスでいちばんきたない課題で、その不細工のために私のだとわかるのに、彼のはその完璧なテクニックのために彼のだとわかるのだった。  私がいちばん元気のいい女の子だったら、彼はいちばんもの静かな男の子だった。  彼は江戸っ子で、おひるをおしる[#「おしる」に傍点]と言い、私は静岡弁まる出しで、 「ちがうじゃんか」  などと言った。私は元気がいいのにかかわらず、彼にそんなことを言ったり、そぶりを見せたり、死んでも出来なかった。二年間も私はウジウジと恋いこがれ、それをあからさまにはけっしてしなかった。全紙のパネルを持って歩いている時、風が吹いてくると、 「Gちゃん、パネルといっしょに飛んで行けば」  などと悪態をつき、 「次郎長持ってくれよ」  とふざけられたりすると腹を立てた。もし何か共通点があるとすれば、二人とも貧乏ということだけだったかもしれない。私は片親で、彼は両親がいなくて、ぜんぶアルバイトをして学校に来ていた。  四年になるとき卒業する先輩が、いちばん貧乏な私とGちゃんに、自分のアルバイトをゆずってくれた。それは浅草橋のライター屋で、その二階のたたみの部屋で、週三回仕事をするのだった。私は経済的に安定することよりも、Gちゃんと週三回もべったり二人きりになれるかと思うと、どんな仕事か、自分に出来るのか、そんなこともわからずに、うっとりしてしまった。  ライター屋の二階に二つ並んだ机に来る仕事は、ライターに入れる一ミリぐらいの小さな文字の版下を作る仕事がほとんどで、一ミリはおろか十センチ四方の字だって私は描けなかった。Gちゃんは、 「いいよ、おれがやるから、下にはわかりゃしないよ」  と神わざみたいに小さな字を描いた。私はせめて鉛筆ぐらいけずろうと、一生懸命けずると、Gちゃんはだまって、それをけずり直して、私を打ちのめした。そして何にもしなくていいよと言って、仕事のない日などは、朝から、Gちゃんが見てきた『用心棒』の映画の話を二日がかりでしてくれた。私は一生懸命聞くものだから、見たこともないのに、今でもほこりっぽいファーストシーンを犬が行く様子を思いうかべてしまう。  二人っきりになっても何の変化もなかった。それらしい思わせぶりなど、私には出来なかった。ある日、Gちゃんが風邪で休んでしまった。下から小さな字を描く仕事が来た。私はあわててしまい、 「明日まででいいですか」  と言うのがせいいっぱいだった。私は外へ出てGちゃんの下宿に電話をかけた。彼は道をおしえてくれて、 「俺が明日までにやるから、原稿をもっておいで」  と言ってくれた。  私は初めて行くGちゃんの下宿に、胸がわくわくした。Gちゃんはふとんに寝ていたのだろうか、何も覚えていない。私が覚えているのは、小さな茶だんすに、茶わんがおぼんの上にふせてあり、それにまっ白なさらしの布巾がかかっていたことだけである。  私はそのきちんとふせた茶わんにかかっているまっ白な布巾を見たとき、ショックを受けた。ああ、私とGちゃんは駄目なんだと思った。背の高さが不似合いなのではない、性格が違うからでもない、もっと目に見えない何かの違いが、けっして交わらないだろう何かが、私にわかった。二十七になって、仕立てのいい洋服を着ても駄目な何かだった。  長居をしないで帰った帰り道、私は、もしかしたら、Gちゃんは私の気持を知っていたかもしれないと思った。私はGちゃんを好きだったから、Gちゃんが望めば、律儀なGちゃんの下町風のおかみさんになれたかもしれない。まっ白な布巾だってパンツだって、手ぎわよく洗うかもしれない。でも何か違うものを、Gちゃんが受け入れられない何かを、Gちゃんは気づいていたのだろうと思った。  けっしてGちゃんと私が、友達以上の関係にならないだろうということがわかっても、私はGちゃんを好きであることを止めることは出来なかった。ますます切なくGちゃんが好きであった。ライター屋の二階で、ただ働きをごまかしながら給料をもらうことは、居直っていた。私はお金が必要であったし、Gちゃんが私の分を働いてくれることにも目をつぶった。しかし、私はあの布巾が、あの白い布巾が私を拒んだ日から、Gちゃんと二人っきりでいることがつらくて、その仕事をやめた。  そのあと学校でGちゃんに会うと、Gちゃんは私のあとに入ってきたアルバイト学生の話を面白おかしくしてくれて、 「次郎長がいなくなったら、俺ひまで困っちゃうよ」  と言った。私はそれを皮肉と思わず、Gちゃんの思いやりだと感じ、そして淋しかった。 [#改ページ]  こんなときなのに  大学三年の時、私はライター屋へアルバイトに行っていた。ライター屋の二階の畳の部屋は、朝行くと、蚊帳の中に、そこの家の息子がまだ寝ていた。  その畳の部屋の窓側の廊下に机を二つ並べて、業界紙に出す小さな広告の原稿を作ったり、ライターに刻む小さな文字の版下を作ったりするのが仕事だったけれど、私はそのどれもが出来なかった。  Gちゃんが、私の仕事をぜんぶカバーしてくれたのは、私が片親で貧乏だったためだと思う。  彼は孤児だった。  仕事がない日は、寝っころがってたあいない話をして時間をつぶした。  ある日、彼は三月十日の東京大空襲で、家族を失った話をした。それは、たあいない話どころではなかった。  一晩じゅう火に追われて、家族がバラバラになって、気がついた時、六歳の彼は小さな姉と手をつないで、荒川の土手に立っていた。逃げのびて来た人たちが、すすだらけのまっ黒な顔をして大ぜい集まっていた。すすだらけのまっ黒になると、人間の顔は、唇だけがあざやかな桃色になるのだった。  そこにいる人は、煙にまみれて衣服と体の区別さえ出来ないほどだった。そのとき一人の男が、突然持っていた風呂敷包みをほどいて、まっ白なシャツをとり出した。男は焼けただれた上着をぬぎすてると、そのまっ白なシャツを着た。まっ黒けな群衆の中で、そのシャツだけがまっ白なのだった。 「何がおかしいって、俺あんなおかしかったことなかったよ。今考えても、あれよりおかしい事に出合っていない」  見た事でもないのに、私にそのおかしさが伝わり、大声をたてて笑い、笑いながら、私は泪がにじむのだった。      *  母は東京の人だったけれど、二十年も東京を離れていたので、言葉の中に、色々の土地の言葉が混じっていた。そして、ひどく早口だった。  叔母はずっと東京にいて、どこまでも東京の言葉をすみずみまではっきり発音した。  叔母は、 「姉さんとけんかすると、時々おかしくなってしまう。あの人興奮すると、あなたって言えなくなっちゃって、あーた、あーたって言うのよ」  と言った。  叔母に、「あなたはね」とめりはりがついた発音で迫られると、私は心臓がドキンとした。  父が死ぬ時、父の寝床の回りに、親しかった人たちや親戚の人たちが厳粛な顔をして坐っていた。もう二日も同じ状態だった。  何か月もほとんどものが食べられなかった父は、背骨がお腹からすけて見えていた。海賊のどくろマークを漫画だと思っていた私は、父の顔を見ながら、どくろマークはずいぶんリアルだなあと思った。  呼吸するたびに、父は笛のような声を出し、のけぞって枕から頭を外した。母や私や妹は、そのたびに父の頭を枕にのせた。  目はすき通ってまばたきもせず、何も見えないのだった。  叔母は私の手を握りっぱなしだった。握られた手から、同情心の強い誠実な叔母の優しさが伝わってきていた。  父が大きくのけぞった時、父が死んだ。 「あーた、あーた」  母は悲鳴に近い声で、父にかぶさった。  その時、私の手を持っていた叔母の手がぶるぶるふるえていた。叔母は、母の「あーた」で笑いがこみ上げてしまったのだ。笑うまいとして、叔母は手をふるわせていた。      *  人が死んだすぐあとの家は、家全体がしゃくり上げたあとのような、ひりひりする淋しさがあった。そして家族全体が、いやに優しすぎるのだった。  訪れる人もまばらになって、ざわついた家がシンとすると、わたしたちは父が死んでしまったことの恐ろしさに、あるいは恐ろしさから目をそらすために、ぎくしゃくして、お腹がすいているのに、何ものどを通らない時のような気分になっていた。  夕食のあと、私たちはこたつに向かい合って、互いにどこを見てよいのかわからないのだった。  玄関がガラガラとあいて、ワタナベ先生が入ってきた。子供であった私たちでも、ワタナベ先生は父のかけがえのない特別の友達であったことを知っていた。  ワタナベ先生は、鬼ガワラにおびただしい毛をさか立てて植えつけたようで、大柄で、肩がいかっていた。  学生時代、先生は、夜中に女子大の寮の二階によじのぼったという伝説があった。そしてその女子寮に住んでいた人が、美しい奥さんだった。お酒をのむと、たてつけの悪い家がゆらぐほどの声で、「妻をめとらば才たけて、みめ美わしく情あり」と歌った。私にはその歌が、先生のためだけにある歌だと思われた。  ワタナベ先生は、ドタドタと大きな体で、父の骨つぼや写真や花が置いてある祭壇の前に坐ると、突然、 「サノリイチイー、ナゼシンダア」  とどなると、「ウオーッ」と泣きだした。大きなこぶしで顔をごしごしこすり、太いうでが行ったり来たりするのが、こたつの私たちのところから見えた。そのうでが、何ともおかしいのだった。私と弟が目を合わせると、弟は口をおさえていた。妹も下を向いて、目だけをキョロキョロ動かしていた。  その時、父が死んでギクシャクしていた家の雰囲気が、ある自然な日常にもどってゆくのがわかった。  にもかかわらず、私は泪がにじんできた。それは父を失った私たちへの泪ではなかった。 [#挿絵(img/139.jpg)]      *  母方の祖父は六十八歳で死んだ。  釣りをしている時、吉田茂に間違われて、否定しても信じてもらえなかったと、あまり嫌そうでもなく言った。  祖父が夏になるといつもかぶっているカンカン帽は、祖父のにおいがして、父のにおいとは違うのを、私ははげのにおいだと思った。  私が帽子をいたずらすると、こわすからいけないといった。頭が大きすぎて、合う帽子を捜すのが大変なのだといった。  火葬場で母と叔母が、祖父の骨をひろった。吉田茂に似ている頭も、平べったくて大きな足も、こなごなの白い骨のかけらになっていた。叔母は骨つぼと白い骨のかけらを見くらべて、 「姉さん、これぜんぶ入るかしら」  といった。叔母と母は、足の方と思われるところから順々に入れ、頭をつぼの上の方に入れようとしていた。実際にはどこの骨か見わけがつかなかったけれど、気持としてはそうしたかった。入りきれない骨がどこかに捨てられてしまうことを考えれば、出来るだけたくさん入れたかった。  叔母は、 「姉さん、これぜんぶ入るかしら」  と何度もいった。  叔母が、 「ここが頭よ」  といった時、もう骨はつぼにいっぱいになっていた。叔母は、大きな骨をつぼの上にのせて、「エイ」と押しこんだ。押しこみながら笑いだした。 「いやだわ。あんた、ほらこれも入るわよ」  と母も笑いだした。  笑いながら、母と叔母は、あの大きな頭蓋骨を持つ祖父を、白い骨つぼにおさめた。 [#改ページ]  私の猫たち許してほしい  私が初めて知った猫は、タマという名前だった。隣りの家の猫だった。子供のいない隣りの小母さんは、着物を着て、三味線をひいた。  三味線をひく小母さんのそばに、猫が寝ていた。どろのへいに囲まれた北京の家の庭にしゃがんで、私は小母さんが変な声を出すのを見ていた。三味線の四角い白いところは猫の皮だと聞いていたので、小母さんの横で寝ている猫が気味悪かった。  ある夕方、小母さんは前かけの中に死んだタマを入れて、大きな声で泣きながら、うちの門を入ってきた。  小母さんは、いつまでも立ったまま泣きつづけていた。  私の家で飼っていた犬が死んだ時、私の家の人間は誰も泣かなかった。私は、小母さんがいつまでも泣くのは、子供がいないからだと思った。  隣りにかわいい女の子がもらわれてきた。  女の子は、つやつや光る髪の毛で、おちょぼ口をして笑った。私は、初めての友達である女の子と毎日遊んだ。  そして私は、一瞬たりともその子がもらい子であることを忘れることが出来なかった。  もらい子であるから、女の子はお正月になると、ふりそでとポックリと重たい羽子板とで、美々しくなるのだと考えた。もらい子であるから、玉子焼きだけ食べて、ほうれん草と人参はきらいでもよいのだ。もらい子だから、寝かせると目をつぶる人形を与えられるのだ。もらい子だから、小母さんの三味線に合わせて、変な声を出してうたをうたわなくてはならないのだ。  私は、女の子が、小母さんの横で泪をためながら、変な声を出すのを、しゃがんでじっと見ていた。そして、三味線をひく小母さんの横で寝ていたタマを思い出すのだった。小母さんはタマの代わりに、女の子をかわいがっているような気がした。  私は引っ越しをして、女の子と別れた。そして、女の子は、遠い町の遠い女の子になった。  ある日、私は、女の子が死んだと母から知らされた。 「気の毒に。あんなにかわいがっていたのに。かわいい子は早死するってほんとうね」  私は、毎日遊んだ女の子が死んだということが、どういうことだかわからなかった。死んだ女の子を考えることが出来なかった。  私は、死んだ猫を抱いて、夕焼けの中で大声をだして泣いている小母さんしか思い出せなかった。      *  引き揚げて、しばらくいた父の田舎の家に、とら猫がいた。  その猫は、片目が生まれつきつぶれていて、しっぽが背中に一か所くっついていた。しっぽの根元とくっついているところとの間に、指が入るぐらいのすきまがあった。  ある日、兄が『子供の科学』という雑誌を見ていた。そこに、猫が木から落ちて、地面に立つまでの体の動きが、こま絵[#「こま絵」に傍点]になって描いてあった。 「猫は、どんなところから落ちても、ちゃんと立てるんだ」  兄は言った。そして、縁側でまるまって寝ている猫を見て、私を見た。私の目も兄の目も、同じ色をしていたにちがいない。  秋の空がまっ青な、シーンとしている午後だった。家には、私と兄しかいなかった。  兄は縁側の猫をつかむと、それでも家の中をうかがった。 「屋根に上げよう」  杉の皮をふいた屋根が、あざやかな青い空からつき出ていた。兄は、両手で猫を屋根にほうり上げた。猫は、杉皮につめを立てて、ころがり落ちてきた。そして、やっとのことで四つ足で地面におりたった。 「ほんとうだ」  兄は、もう一度猫をつかんで、屋根に投げた。猫は、ほとんど、しゃがみ込んだまま、それでも地面にへばりついた。 「ほんとうだ」  兄はもう一度猫をつかんだ。 「やめようよ」  私は片目の猫を見て、恐ろしくなっていた。 「だいじょうぶだよ」  兄は私をふり返って、もう一度屋根へ猫を投げた。  猫は、片手のつめを杉の皮に立ててぶら下がり、そして、そのまま落ちてきた。猫は、地面にたたきつけられて横になったまま、動かなかった。  私と兄は、じっと目を合わせて何も言わなかった。長い間、私と兄は見つめ合ったまま立っていた。  兄は、猫をそっと持ちあげて、玄関のあがりがまちにおいた。猫は動かなかった。私と兄は、黙って、互いの目だけを見ていた。兄ののどがごくりと鳴り、私ののどもつばきをのみ込んだ。  私たちは、無言のまま後ずさりをし、猫から早く離れたかったのに、猫が見える玄関のまん前の庭さきに並んで、しゃがみこんだ。  私たちはただ猫を見ていた。猫は動かなかった。伯母が帰ってきて、台所で働いていた。  しばらくすると伯母は、囲炉裏のある玄関つづきの部屋を横切って、奥の座敷へ消えた。私は、胸がのどまでとび出てくるかと思うほどだった。  その時、よちよち歩きはじめた妹が、どこからか出てきて、玄関の中に入り、猫の上にこしを下ろした。「フギァー」と不思議な声がして、妹は驚いて立ちあがった。猫が、ふにゃふにゃっと立ちあがり、よろよろよろけながら、歩きはじめた。伯母が奥の部屋から出てきて、猫を見た。 「あれ、この猫、どうかしたのかね」  私と兄は、すかさず、 「知らない」  と言った。あんまり声がそろっていたので、私は不安になった。  猫は、よろけつづけて、台所に行った。私と兄は顔を見合わせ、「ふーっ」と長いため息をついた。  私と兄は、そのことについて一言も話をしなかった。  しばらくして私たちは、電車に乗って二つ目の小さな部落に引っ越した。  そしてある時、私と兄は、伯母の家に遊びに行った。伯母は、縁側で干し柿にする柿の皮をむいていた。伯母の横のざぶとんの上で、猫が寝ていた。 「この猫、やっぱり体が弱かったんだね。このごろ、一日じゅう寝てばっかりいるよ」  私と兄は、じっと目を見つめ合っていた。  そして黙っていた。 [#挿絵(img/151.jpg)]      *  中学校で初めて横に並んだ田中さんと私は、仲よしになった。田中さんはとても美人で、もののいいウールのセーラー服に赤い蝶ネクタイをしていて、4Hの鉛筆で、真四角な字を書いた。お父さんは社長だといっていた。  家に行くと、大きな家で、家のつづきの広いガレージにトラックが何台もあり、鉄骨や材木が積んであり、家の玄関に田中工務店という看板がさがっていた。  作業衣を着た若い男の人が、田中さんのことを、「お嬢さん」と言った。  田中さんの部屋には黒いピアノがあった。私は時々田中さんの家に勉強に行き、田中さんの字を真似た。  田中さんはお茶とお菓子を出してくれるお母さんに、神経質そうにまゆをひそめたりした。お茶を出し終わると、田中さんのお母さんは広い家のどこにいるのかわからなかった。  私は、田中さんの家でばかり勉強するのは悪いと思ったので、ある日、家にさそった。  私の家は、兵舎を改造した八軒長屋で、玄関の戸にはガラスの代わりにからかさに張ってある黄色い油紙が張ってあった。  家中が一目で諒解できる八畳の部屋のすみで、私と田中さんは向き合って四角い字を書いた。書きながら、何かおやつがあればいいのにと思い、追い払った妹や弟がドヤドヤと帰ってきて、この部屋の中でさわぎ回ったらどうしようと思った。  その時、猫が部屋に入ってきた。猫は部屋の真ん中で、突然「ギョッ、ギョッ」と鳴きながら、吐きはじめた。気味悪い、糞の形をした深緑色のかたまりだった。私は、実に恥ずかしかった。  私はちり紙でそのかたまりを包んで、窓からすてた。かたまりは猫の毛がべったりと付いていて、ちり紙を通してなまあたたかいやわらかな温度が伝わってきた。  私はぞうきんでたたみをふき、田中さんは気味悪そうにじっと見ていた。  田中さんは机にもどった私を、 「佐野さん、えらいねえ」  と言った。そのとき私は、さらに恥ずかしかった。何でも自分で始末することは、貧乏のあかしであることを悟ったのだ。  私が一人で家にいた時、お腹が大きな猫が、狂ったように自分のしっぽに向かってくるくると走り回り、無気味な声をたてながら、子猫を産みはじめた。猫は際限なく子猫を産み落とし、子猫が入っている袋を食いちぎり、血に染まった袋を次々にのみこんでいった。私は猫が子供を産む恐ろしい光景を、じっと見ているより仕方なかった。  私はぼろ切れを押入れにつっ込み、気が立っている猫を押入れに誘い、猫が汚したたたみをふいた。  ふきながら、いま田中さんに見られなくてよかったと思った。      *  私はずっと猫がきらいだったから、自分が猫を飼おうなど、思ってもみなかった。  息子が四歳ぐらいになった時、猫のいる友人の家に遊びに行った。息子は玄関で靴をぬぐ間もなく猫を見つけ、まっしぐらに猫を抱き上げ、猫の顔に自分の顔をぐいぐい押しつけた。私は猫よりも、猫を抱く息子を可愛いと思った。そして私の知らない愛を知っている息子に、軽いねたみを持った。  息子が猫を欲しがるので、私は猫を飼おうと決心した。決心した時から、私は不安で気味悪く、ほんとうに家に猫が来たときの事を考えると、自信がなかった。  ちょうど生まれた子猫を持っている友人がいたので、持ってきてもらった。きれいなしまと白のある、目の大きな可愛い猫だった。子猫は親と兄弟から離されて、一晩じゅう細い声で鳴いた。  私はやけっぱちになった。一匹も二匹も同じだ、もう一匹残っている兄弟ももらってしまおう。私は生まれたての赤ん坊のように鳴く子猫の声が、耐えられなかったのだ。  次の日、残っていた兄弟猫を友人がかごに入れて持ってきてくれた。かごから出された猫と家の猫は、両方から鉄砲玉のように走り寄り、狂ったようにお互いをなめはじめた。その猫に情が移ったわけでもないのに、私は泪がにじんできた。泪がにじんできたことで、昨晩猫の鳴き声を気味悪く思ったことが許されるかもしれないと思った。  一匹目の猫は、無邪気でかわいらしい顔をして人がよかった。二匹目の猫は小さな目をして、しまの模様もまだらで、わたしみんなわかっています、という目で私をじっと見て、ふっと視線を逸《そら》す。私は一匹目の猫をかわいいと思っていることを二匹目にさとられまいとして、むしろ二匹目に優しい声をかけた、でも二匹目はじっと私を見て、わかっていますよ、というのだ。  息子は、猫なら何でもかわいいので、ほんとうにわけへだてなくかわいがり、いじめた。私は次第にうちの猫を外の猫と区別して、身びいきをするようになった。  私はもう、猫を気味悪いと思わなくなった。二匹目のぬけ目なさも、野生的だと思うと、何となく尊敬していた。  二年ほどして犬を飼った。二匹目の猫はふといなくなっていた。息子と私は、いなくなった理由をあれこれ考えて、雨の降る夜はとくに気になった。  もう私たちはその猫のことをあきらめた。死んでしまったのかもしれない。私たちのことをきらいだったのかもしれない。犬にしっとしたのかもしれない。  私は、多分あの猫は私の気持を見抜いていたのだと思うと、自分の感情や性質というものに自信が持てなくなった。  猫がいなくなって、八か月たった。  もうすぐ寒くなりそうな秋の中頃だった。あの猫が、そおっと入ってきた。赤い首輪はつけたまま、いっそう鋭く野生的になっていたが、やつれてはいなかった。汚れてはいなかったけれど、一本一本の毛に、こまかいほこりがふわっと沢山ついていた。  猫は私の顔をみて鳴いた。猫はみな息子の猫だったから、息子は目のふちを赤くしていた。  猫は私のところにだけすり寄ってきた。猫は私を許してくれたのか、許さないでも、私に気を病むことはないと言いたかったのか、私の側で一晩、息子のふとんに三晩ねて、またどこかへ行ってしまった。  次の年、またもうすぐ冬になる肌寒い日、猫がもどってきた。なおいっそう野生の猫になっていた。また猫は私をじっと見て、ふっと目を逸《そら》した。そして一晩だけいて、それっきりもどってこなかった。  もうすぐ冬になりそうな夜、息子と私は、猫を待っている。  私と息子は、いなくなった猫も飼っている。      *  初めて自分で二匹の猫を飼い、ようやく猫と生活することになれてきた頃だった。  その猫たちは友達の家で生まれた兄妹で、なかなかきりょうよしだった。私は今度は、だれも相手にしない、ブス猫を飼ってあげよう[#「あげよう」に傍点]と思った。人の世で美しい人が優遇されていることへの、抗議のつもりだったにちがいない。  会社に、生まれてまもない仔猫をひきとって欲しいと持ってきた人がいた。私は、こんな猫を見たことがなかった。色とか模様とかというものが、いっさいないのだ。あらゆる色がまじり合っていて、掃除機の中のごみのかたまりみたいだった。大方は灰色に見えるが、ところどころに明るい茶色があり、それがいっそうきたならしく見えた。  私は正直いって、とっても不愉快な気分になった。でも今度はブス猫をかってあげよう[#「あげよう」に傍点]と思っていたので、自分自身に対して嫌だと言えなかった。私は大きく息を吸って、飼ってあげよう[#「あげよう」に傍点]と決心した。  家に連れて行くと、家の二匹の猫は、遠くからじっとその猫を見ていた。  仔猫は目がどこにあるのか、よーく見ないとわからなく、それでもあたりまえの仔猫のように、無邪気に走りまわり、めっぽう気が強いのだ。えさを与えるとガツガツと食べ、その間にフゥーフゥーとうなり続けている。家の猫は、すこし離れてそれを見ていた。仔猫は、そうやって自分で世の中と戦わねば、生きていけないことを知っているみたいだった。  そのえさの食べ方が、私を憂鬱にした。私は、自分がもしかしたらこの猫みたいに生きてきたのではないかと思うと、滅入ってきてしまった。  一人でアパート住まいをしている妹に、猫を飼わないかと電話した。私が、 「あんまりブスで、飼う気がしないのよ」  と言うと、妹は、 「お姉ちゃんひどい、私が飼う」  といきおい込んで言った。そして「大家さんに聞いてみる」と言い、しばらくして、「いいってさ、今すぐ行くからね」と元気な電話がかかってきた。  妹は、その猫をじっと見ていた。そして、おそろしく真面目な顔をして、黙って私の顔を見た。 「あんた、飼うって言ったからね」  私は自分も飼う決心をしたことをうしろめたく思いながら、強く言った。そして自分を卑怯だと思った。妹は口数が少なくなったまま、その猫を赤いバスケットに入れて帰った。  次の日、妹はまた赤いバスケットを持って、家へ来た。大家さんが猫を見せてくれと言って、その仔猫を見て、何も言わずに、ゆっくりゆっくり首を横に振ったというのだ。 「大家さん、猫好きなんだよ」  と妹は、うれしそうに笑った。  私と妹は、あちこちに電話して、その猫のもらい手をさがした。会社に来る前にもその猫は、もう度々そんな目にあっていたのかもしれなかった。そして、私達が直接知らない若い夫婦のところに、妹の友達が持っていってくれた。  私は、またもどされるのかもしれないと心配したが、その猫はそこの猫になったらしかった。私は安心をし、そして自分が嫌な人間だと、つくづく恥ずかしかった。  それから気を付けて見ていると、あの猫と同じような色合いの猫が、たくさん目についた。かまど猫というのだとも聞いた。私はそういう猫を見ると、土下座して頭を下げたくなる。そして今度、あんな猫がまよい込んできて自然に家にいついたら、自然にまかせようと思っている。  いきおい込んで、ブス猫を飼ってあげよう[#「あげよう」に傍点]、などと思ったことが恥ずかしいことなのだ。  気が付いたらブス猫が傍にいた。そしてそれが、気が付いたらめっぽう気が強かった。  それだけのことにしたい。 [#改ページ]  Schwarz Herz  ベルリンに住みはじめたころ、私から見える窓の明かりは、いつだって『マッチ売りの少女』が見た窓のように見えた。人影のまったく見えない窓でさえ、明かりさえついていれば、明かりと同じだけの明るさが、その中で営まれているように思えた。  私の下宿の台所から外を見ると、隣りの家の窓が見えた。大きな家の庭に面した窓から、白くて清潔なレースのカーテンにふちどられて、いつも一人のおばあさんが坐っていた。そのおばあさんは、テーブルの前にじっと坐って微動だにしない。私はそのおばあさんの左側の横顔しか、見たことがない。  朝起きると、すでにおばあさんは坐っていた。私は窓ぎわのスチームにかえるのようにのっかって、彼女がいつ動き、いつごはんを食べるのだろうかと見張っていたけれど、しまいに足がしびれて、飽きてしまった。それでも毎朝私は、今日こそは、とスチームの上にしゃがんだ。そして毎日飽きてしまった。まるで額縁の絵と同じだった。  ある夜、雪が降っていた。窓から外を見ると、大きな家で、そこだけ明かりがついている。紅いスタンドをすかして、きれいな紅っぽい光が四角く見える。雪の降る夜のレースにかこまれた小さな窓は、絵本のように愛らしい。そこにあのおばあさんが、朝と同じ姿勢で坐っていた。  大きな黒いかたまりのような家に、紅いきれいな光の窓。朝見るおばあさんよりも、それはいっそう孤独に見えた。  ベルリンはほんとうにおばあさんが多い街だった。西洋人が基本的に個人に徹してい、一人で生きることに小さい時から慣らされているとしても、絵本の絵のような窓の、身動きしないおばあさんに胸をしめつけられるように感じるのは、東洋人の感傷だけだったのだろうか。  街に出ると、おびただしい老婆に行きあった。公園のベンチは老婆でぎっしりつまっていたから、私はいつだっておばあさんにはさまって日なたぼっこをしたけれど、見知らぬ老婆から、しわくちゃの手でしっかり手をつかまれてしまったこともある。彼女はただにこにこ笑って、私の手をはなさない。  スーパーでつえをつきながら、足をひきずり、太った体をゆっくりゆっくり動かして、小さなパンを二つだけかごに入れているおばあさんもいた。  しばらくして移った下宿の家主は、七十歳のおばあさんだった。隣りのドアに病気の娘と孫娘が住んでいたけれど、彼女らが一緒に食事をしているのを見たことがない。  時々、私が孫娘にお茶に招《よ》ばれてケーキをごちそうになる時、その部屋に入ってきたおばあさんに、お茶いっぱいすすめることもなかった。おばあさんはけわしい顔付きをしてストーブによりかかって、それでもしばらくは立っていた。そういうものらしかった。  夜になると、おばあさんはドイツ人にしてはめちゃくちゃにきたない部屋の中で、すり切れて黒光りがしている布張りの椅子にこしかけて、一人で食事をしていた。大きなフロアスタンドに明かりをつけて。  その大きなフロアスタンドは、赤いしゅすが張ってあって、レースもかぶせてあったけれど、そのレースがもと何色だったかはわからなかった。私にはそれが、何だかキャバレーの踊り子の下着のように見えた。  食事が終わると、同じ場所で、おばあさんは毎日毎日トランプの一人占いをしていた。まだ若くて残酷だった私は、七十になる人にまだ占うことがあるのかと考えてしまうのだった。  大きな紅いフロアスタンドがつくる光の中で、おばあさんも紅く見えた。  私はもう『マッチ売りの少女』のようには窓の明かりを見なくなっていた。その窓の明かりの中で、一人ぽっちの老婆がじっと坐っているのではないか、と考えた。『マッチ売りの少女』を天国につれていったおばあさんも、じっと身動きもせず坐っていた。長くて寒い夜があったかもしれない。  私がベルリンをたつ日、玄関でごわごわのレインコートのような部屋着をきて私を抱いたおばあさんは、泣いていた。私は半年いたかいなかったかわからない、ただの下宿人だった。ビー玉のようなすき通った目玉から、だらだらと泪が流れた。  私はたびたび下宿のおばあさんを思い出した。私に見えてくるのは、紅い光の四角い窓である。その四角い窓の中に、キャバレーの踊り子の下着のようなフロアスタンドからの紅い光に染まって、一人占いをしているおばあさんが見える。  それも一枚の絵のように動かない。      *  ミスタ李《り》は、立派なフロックコートを着て、絹のスカーフをして、帽子をかぶっていた。祖国を捨てて、ヨーロッパのあちらこちらで暮らして、五十を過ぎて、そして、いつも希望に満ちて、いつか成功する日を夢みていた。日本に留学してお金を湯水のようにつかった若い日のことや、はなやかで美しい沢山のかつての恋人たちのことを語るミスタ李は、傷つきやすい青年のようだった。  青年の心のまま年老いつつあるミスタ李は、家主のドイツ人のおばさんに、毎日かいだんで、 「ファイドンチューペイ」  とどなられて、ふり向きもせず、フロックコートの肩をゆすっていた。同じ階に住んでいた私は、台所を一緒につかい、時には、同じテーブルで食事をした。貧しい食事をしながら、彼は果てしなく成功するであろう事業と、かつての美しくやさしい恋人たちの話をした。  多分彼は、事業で成功するには善意が多すぎ、夢が大きすぎたのだった。恋人たちをしばるには、優しすぎ、現実の自分を認めるには、虚栄心が強すぎたのかもしれない。  ミスタ李の同郷の新聞記者は、 「僕は成功しない商人は嫌いです」  と言った。成功を夢みる商人であるミスタ李は、新聞を買うために毎朝出かけて行った。二百メートル先のスタンドに行くために、ミスタ李は絹のマフラーをしっかり胸元にたたんで、しゅすのえりのついたフロックコートを着て、黒い帽子をかぶった。  もしかして成功するかもしれない商売の話をしにゆく時も、ミスタ李は、同じ帽子と同じマフラーと同じフロックコートを着て行った。  機嫌がいいとミスタ李は私を相手に、『プレイボーイ』のスクープであるイギリスの列車強盗の犯人の手記を話してくれた。犯人は脱獄する時、自分の独房の鉄格子の下に赤いバラの花をわざわざ落として行った。嘘だったかもしれない。嘘でも赤いバラを落としたほうがロマンチックだから、私はそれを信じた。 「どうです、これは芸術ですよ」  ヨーロッパ人のように『プレイボーイ』をたたきながら、ミスタ李は、首を振って肩をすくめた。朝食の時でさえ、ミスタ李はきっちりと紺の三つ揃いを着ていた。  ミスタ李と同郷の人達が、強い愛国心と望郷の思いを口にしたけれど、ミスタ李は、若い青年のように未来を夢みて、決してふるさとのことを口にしなかった。彼が、国でいちばん大きな書店の主人であったことは他の人から聞いた。彼は国の財産をぜんぶ処分して、大金を持ってヨーロッパに渡って来たのだった。  ミスタ李は、もうふるさとに帰らない決意をしていたのかもしれない。  あるいは、むずかしい国情のふるさとは、ヨーロッパナイズされた生活習慣が身についてしまったミスタ李に、遠いものになってしまっていたのだろうか。親しい肉親がすでにふるさとには、いなかったのだろうか。  ミスタ李と同じ国の人の前に出ると、私は自分が日本人であることを強く意識させられたけれど、ミスタ李は、私にそのような意識を持たせなかった。そのことが、かえってミスタ李の孤独を強く感じさせた。  ついでに入れた一杯の紅茶に、ミスタ李は、 「優しいね、優しいね」  と感動した。心からの感動が私に伝わり、かつてスイスの山荘にアメリカ人の恋人とぜいたくに暮らしていたミスタ李のことを考えると、私は困ってしまうのだった。  ヨーロッパの春は、たった一晩でやって来た。たった一晩にまっ黄色なクロッカスが街じゅうにあふれて、緑が芽をふいた。  急に明るくなった街の中で、私は異様な人を見た。黒い帽子をかぶり、フロックコートを着て、その人は後向きに立っていた。そしてフロックコートの下から、コートの裏地が細いわかめのようにたれさがっていた。ミスタ李だった。  私達は連れだってバスにのって、下宿に帰った。バスの中でミスタ李は、果てしなく成功するであろう新しい事業のはなしを、晴れやかにした。  わかめをぶらさげたまま、ミスタ李は台所で熱をこめて続きを話した。私は、はさみを持ってきて、立ったままでいるミスタ李のフロックコートのわかめを切った。わかめは、上等な絹だった。私はミスタ李をたいへん侮辱しているかもしれなかった。ミスタ李は、 「ありがとう。優しいね、優しいね」  と相変わらず晴れやかに言うのだった。  日本へ帰って来て一年ほどして、私はミスタ李から電話を受けた。アメリカに行く途中、日本に寄ったと言っていた。 「帝国ホテルにいますよ」  私はなつかしく、とても会いたいと思った。ミスタ李はついに成功したのだろうか。  私は会えなかった。  真夏だったのに、黒い帽子をかぶり、フロックコートを着ているミスタ李の姿しか思い出せなかった。 [#挿絵(img/169.jpg)]      *  むしたさつまいもを持って、男の子たちは釣りに来た。  黒く汚れた手でコネコネとさつまいもをこねると、黄色いさつまいもは、うす黒い小さな団子になった。それを小さな針につきさして、水に投げ入れる。あかや汗で黒光りしている顔に、口を真一文字に結んで、じっと一点を見つめると、彼らはみな近寄りがたい威厳がただよった。  期待に満ちて竿をあげると、たいていさつまいもはとけてなくなっていた。すると男の子は、そばにしゃがんで見ている私に、 「バカヤロ、あっちに行け」  と言った。私はすこしだけ、あっちにおしりをずらす。そして、いつかさつまいもに食いつく魚を見るまでは、立ち上がれない。何か、きまりがつかないのだ。  私はさつまいもが嫌いだったから、魚がさつまいもを好むのが不思議な気がした。もしかしたら、ほんとうは魚だって、さつまいもが嫌いなのかもしれない。私たちが、いやいやながらさつまいもを食べるように、魚もいやいやながらさつまいもを食べるのかもしれない。  けれど、魚に人間がおいしいと思うものを与える必要はない、と思った。だって魚なんだから。  バスに乗っていると、バスは大きな橋をわたった。橋の下に大きな川が流れていた。私はその街に住みついて何か月かたっていたのに、その川を初めて見た。  夏になりかけていて、土手の緑が鮮やかだったから、水の流れに気がついたのかもしれない。同じバスに何度も乗っていて、私は川に気がつかなかった。冬の間は何でも灰色に見え、水も土手もまざり合って、水でも土手でもなかった。  私はバスをおりて、土手ぞいに歩いた。郊外だったから近くに家はなく、誰にも会わなかった。土手は草が鮮やかで、小さい黄色い花や丈の低い木があった。  すると突然、乞食小屋のようなほったて小屋が、見わたすかぎり出現した。  たたみ二畳ぐらいの小屋の横や前に五、六坪の土地がロープや板で仕切られていた。どの小屋もどの小屋も。その小屋の前の空き地に、派手な水着を着てサングラスをかけた、まぐろのような中年の女が、デッキチェアにころがっていた。  私は驚いた。  もう少し歩くと、またまぐろのような女がデッキチェアにころがっていた。彼女も裸に近いかっこうだった。  私は突然人間がいたからおどろいたのではない。日本なら決して肌を見せたりする年齢ではない女が、恥ずかしがりもせず、しみの盛大にうき出た体を露出させているのに驚いたのだ。私は何故そこにごろごろ女がころがっているのかということよりも、彼女らが恥ずかしがっていないことが、ただただ異様に思えたのだ。  ああ、これが学校の友達のカレンが言っていた、田舎の小さな家なのか。石造りの家で、ほとんど陽のささない家に住んでいる人たちが、日光浴をするための小さい田舎の家。カレンがとても嬉しそうに言っていた小さい田舎の家。  うすもも色にうす茶色の斑点をまき散らしている巨大な肉のかたまり。それを恥ずかしいと思わない堂々たる精神の前で、私はたじろいだ。  その一人のまぐろは、顔じゅうで笑って、私にサンドイッチを食べるようにさそってくれた。  私は土手を下りて、川べりの小さい道を下っていった。この大きな街の真ん中を流れながら、川の水はたっぷりと澄んでいた。道ばたで、太った老人が釣り竿を下げていた。小さな道をふさいで釣りをしている老人の側にしゃがんで、私は釣り糸が水面に接しているところを見ていた。  どんな魚が釣れるのだろう。  老人は釣り竿をひき上げた。何もかかっていなかった。  老人は私に向かってウインクをして、 「チ、チ、チ」  と言った。  昔こんな時、あの黒光りした男の子たちは、 「バカヤロ、あっちに行け」  と言ったものだ。  老人は、かたわらのアルミホイルを開くと、何かをこねこねと、太った短い指でこねはじめた。アルミホイルに、むした皮つきのじゃがいもが入っていた。ドイツでは、魚さえもじゃがいもを食べるのだ。この川の魚はドイツ人なんだ。  川の魚さえじゃがいもを食べるドイツ。好むと好まざるとにかかわらず、ドイツの魚はじゃがいもを食べるのだ。  まぐろのようにころがっていた巨大なドイツの女とのへだたりより、小さなじゃがいもにいつか食らいつく小さなドイツの魚が、私に強く孤独を与えた。      *  子供のころ私は、ピアノを習いたいとたびたび言った。 「うちの系統は音痴だ。やっても無駄だ」  悪意さえこめられているように、父はせせら笑った。私は、なぜあのように父が確信に満ちていたのかわからない。  そのころ私は小学校の合唱団に入っていて、放送局に行って、 「かえるの歌が、きこえてくるよ」  と歌って、家では家族中がラジオにしがみついて、聞いてくれた。  私は自分が音痴だとは思っていなかった。中学に入ると、高い音が出なくなった。私はみんなより一オクターブ低く歌った。みんなが低い音を出す時、それは私には低すぎるような気がして、一オクターブ高く歌った。誰かが、 「誰だ、変な声を出すのは。真面目にやれよ」  と言ったけれど、私は別にふざけていたわけではない。私はその時は、声帯が不安定な時期だから仕方がないと思っていた。  大学の修学旅行の時、宿屋の風呂場で体を洗いながら、歌をうたった。 「かあらーすなぜなくの、からすは山に……」 「やめてよ、調子っぱずれの歌」  あんなに強い拒否を、私は初めて受けた。風呂場で上機嫌で鼻歌をうたうこともゆるされないのか。  私は歌をうたわなくなった。  日本にカラヤンが来たことがあった。  白黒のテレビに、美しい男が映っていた。私はカラヤンの手の美しさに驚いた。カラヤンはその美しい手を、一瞬も止めることなく、止まっている時でさえ、美しく動いていた。  私は急いでテレビの音を消した。すると、音楽の消えた白黒のテレビは、息づまるようなドラマに変化した。  カラヤンの手は、あらゆる感情、表情をしていた。激しいよろこび、かすかにかすかによみがえるいのち、遠くの希望、恐怖やいかり、やさしい愛や苦しい嫉妬。生きている間、私たちが同じ感情を二度と味わうことがないように、カラヤンの手は同じ動作を二度とくり返さなかった。  そしてカラヤンは、朝起きて歯をみがき、コーヒーをのんでシャツを着てパンツをはいた。ビフテキも食べたし、お酒ものんだ。女をひっぱたいたり、あやまって仲なおりもする。私たちが朝起きて寝るまでの動作をぜんぶした。とても美しく。とても美しくパンツをはいて、とても優雅に食事をした。それは人生だった。  私がカラヤンを天才だと信じたのは、彼がどんなに素晴らしい音楽を創り出した人かということではなかった。カラヤンが創り出した音楽をぜんぶ消しても、なおかつ表われたドラマのためだった。  しかし音を消してカラヤンを「見た」ということは、やはり恥ずかしいことだった。  それから何年もたって、私はベルリンで、カラヤンのニューイヤーコンサートに連れていってもらったことがあった。とても手に入りにくい切符で、私の隣りの席は、フランスの有名な音楽評論家だと、連れていってくれた人が教えてくれた。 「ヨーロッパ中から、カラヤンをきく人が飛行機に乗ってやって来るのだから、ベルリンは何もない街だけど、音楽だけは世界一です」  と私に切符をめぐんでくれた人は自慢気に言い、フルトベングラーとカラヤンの違いも説明してくれた。やがてカラヤンが現われた。私はまたしてもカラヤンの美しさに圧倒された。まばゆいコンサートホールの中で、私は手だけでなく、まるごとのカラヤンの動きに感動した。  私の耳に、カラヤンの音は何も聞こえてこなかった。彼はアフリカの黒いひょうのようだった。あるいはポプラの木が風にそよぐようだった。そしてカラヤンは、人間の男だった。エレガントということばは男のためにあり、エレガントを表現するのは男なのだと思った。  私は、とても手に入りにくい切符をめぐんでくれた人に、感謝しないわけにはいかなかった。  私はカラヤンが表現した音楽でないもののために、生きることがどんなに美しいものかと思ったし、明日もあさっても生きたいと思った。  コンサートが終わって、コンサートホールの中は興奮と熱気が支配し、それは音楽に酔った人たちが共有する連帯だったと思うけれど、その中にあって、私もまた興奮に支配されていた。  心地よい興奮のまま、私達は酒場でワインを飲んだ。そしてワインを流し込まれた私の思考力は、多少は持ち合わせていた虚栄を溶かしてしまい、 「私ね、カラヤンは音なしで姿を見るのが好きなの。テレビでね、いつか……」  話し終わった時の彼の顔を忘れることが出来ない。私は、大事な友人を失うのではないかと恐れた。  彼は憐れむように私を見た。神が心貧しい人を憐れむ時、こんな表情をしたのではないかと思った。彼は二度と私を音楽会にさそわなかった。  その人は、それから私のことを「見る人」といった。  父が確信に満ちた、悪意さえこめられているような口調で、「無駄だ」と言ったことを、私はときどき考える。      *  私の父は、外国人のことをケトウと呼んだ。マッカーサーもケトウで、ベートーベンもケトウだった。 「日本はいつ発見されたの」  と父に聞いた時、 「日本は発見されなくてもちゃんとあった。ケトウのいいそうなことだ」  とはきすてるようにいった。  そして父は、学校で西洋史を教えていた。  私の下宿のおばあさんは七十歳で、日曜日の午前中に風呂に入った。私が用事があって居間に入ってゆくと、すり切れた茶色とも紅色ともつかないビロードのソファーの上で、素裸で、体中に白い粉をつけていた。驚いた私がドアを閉めようとすると、手まねきをして、さらに熱心に粉をはたきつけて、平気で話をした。  私は裸で人と話をすることよりも、七十になっても、熱心に粉をふりまいている西洋のばあさんに驚いた。おばあさんはうすもも色で、ひどくなまめかしいのだ。  朝食は二人で玉子一個ずつと、紅茶と、各々のソーセージを少しだけ食べた。  私たちは下手な英語で話をし、それでつまった時、おばあさんは私の独和辞典をめくって指さしたり、私が和独の辞書をめくって、おばあさんの顔の前につきつけた。そして、二人は、「ヤー、ヤー」と大きくうなずいて、また話をしていた。  朝食が終わると、おばあさんは一日中、貸本屋の探偵小説を読み、私は学校へ行ったり、行かなかったりしていた。  隣りに、孫娘が母親と住んでいて、私は孫娘のアンジェリカの友達だった。大学で日本文学を勉強しているアンジェリカは、聞いたこともないような正しい日本語を話し、 「日本のことばは敬語が素晴らしいのです」  と、盛大に敬語をちりばめて、 「あなたのおことば、どうしてそのように悪いのですか」  と悲し気に首を振って、私を恥じ入らせた。アンジェリカは、 「おばあさんはとても不潔。台所にはきたない虫がいます。おそうじしません」  と遠くで鈴を振るような美しい声で私にささやき、 「おばあさんは悪い人です。とてもけちんぼ。欲が深い。仲良くしてはいけません」  と私に命令した。 「おばあさんは、嘘つきです。遠くの友達に、嘘を言って、お金送ってもらいます」  アンジェリカの母親とおばあさんの間の長い歴史がどのようなものであったのかわからなかったけれど、アンジェリカが私に熱心に話をするにいたる理由は、充分あっただろうと私は考えた。そしてアンジェリカが言うことに嘘はないだろうと思われた。朝食の時、ほんとうに、お金がパラパラ落ちてくる手紙の封を切っているおばあさんを、私は見たことがあった。でもおばあさんは、アンジェリカの悪口は一度も言ったことがなかった。  ある日おばあさんは、私の部屋のストーブに石炭をほうり込みながら、 「シュバルツ・ハーツ シュバルツ・ハーツ」  と歌うように言っていた。  私が、 「それは何か」  と聞くと、自分の胸に手を置き、「シュバルツ・ハーツ」と言い、私の胸に手をあてて、「シュバルツ・ハーツ」と言いながらウインクをした。  私は、シュバルツが「黒い」ということで、ハーツが「心」ということはわかった。そして私は、ドキッとして、うろたえた。  おばあさんはさらに、 「シュバルツ・ハーツ、シュバルツ・ハーツ」  とふしをつけながら台所の方に行った。私は辞書を持って、おばあさんを追いかけた。おばあさんはやはり「黒」を指さし、「心」を指さした。  黒い心は、悪い心かと私は聞いた。おばあさんは首を振り、黒い心を持っている人は黒い心を持っている人がわかるのだ、私もお前も黒い心を持っている、と言った。  私はさらに、 「アンジェリカはシュバルツ・ハーツか」  と聞いた。おばあさんは、両手をひろげて、首をすくめて、何も言わなかった。  私には、もうわかっていたのだ。ずいぶん前から、わかっていたのだ。おばあさんと私は同類の人間だということが。アンジェリカと話をするより、おばあさんといる方が心地よいということが。おばあさんの悪口を言っても、アンジェリカは決してシュバルツ・ハーツではないということが。そして私は、シュバルツ・ハーツと言われて納得いくものを、充分に自分が持っているということが。  私はその時、すでに死んでしまっている父を思い出した。 「日本は発見されなくてもちゃんとあった」  とはきすてるように言いながら西洋史を教えていた父もまた、シュバルツ・ハーツの人だったのだ。私はビー玉のようにすき通る目のまわりをふちどっている金色のまつ毛を見ながら、「この人、ケトウだったのか」と思った。  そしてケトウのおばあさんとまじまじ見つめ合い、シュバルツ・ハーツを分かち合っている私は、父のシュバルツ・ハーツをたしかに受け継いでいた。      *  十五年も前のことである。私は何の目的も抱負もなく、お金もないのに、ベルリンに行った。空港に着いた瞬間、とんでもないところに来てしまった、ただちに日本に帰りたい、と思った。  私は半年の間そこに住んだが、それは相性の非常に悪い男と同棲しているような半年間だった。私は学校が夏休みになるのを待って、イタリアに行こうと思った。私は聴講生にしか過ぎないのだし、それも行ったり行かなかったりなのだから、もっと早くその街と訣別できそうなものなのに、なぜ人は、もっともらしいきっかけをみつけるのだろう。  あと一週間でその街を離れようという時、それまで我慢し悪態をつきながら食べていたドイツの食べ物が、まったくのどを通らなくなった。その一週間を、一日一食ですませた。中華料理店でヌードルスープとよばれるラーメンだけを食べた。いよいよ最後のヌードルラーメンを食べ終わると、私は実に晴れやかに気前よく多めのチップをおいてきた。  次の日の朝、私は汽車の時間が待ち切れなかった。荷物を運んでくれるという友人を待ち切れなくて、私は往来まで自分で荷物を運んだ。駅の喧噪の中で、もう二度と会えないかもしれない友人なのに、私は街を離れるうれしさをかくすことが出来なかった。 「こんなにうれしそうに僕と別れた人、初めてです」  申し訳ないけどうれしいのである。  汽車がミラノに着いた時、駅のドームの中でウァーンと反響する汽車と人とが生みだす音は、どこの駅も同じなのに、私には歓喜のこだまのように聞こえた。  ミラノは私を拒否しない、と私は感じた。理由などわからない。  私は友達のいるホテルに行った。友達がいなくて、同居している知らない女の子が、私を場末のレストランへ連れて行った。私は一日半なにも食べていなかったので、 「何でもいい」  と言うと、スパゲッティと鶏のレバーをにんにくとオリーブ油でいためて、パセリをかけた料理が出てきた。私は世の中にこんなうまいものがあるのかと思った。私はにんにくくさいレバーを食べながら、幸せで涙が出そうだった。 「おいしい、おいしい」  私が異常に見えたのかもしれない。 「ドイツで何を食べていたの」 「ドイツに食事はない。私はえさを食っていた。あなた、毎日こんなおいしいものを食べているの」 「もっとおいしいレストランは沢山あるのよ。急いでいたから近くにしただけよ」  私は、今が生涯の中でいちばん幸せなのだと思った。このにんにくくさいレバーと、明るい太陽と、陽気なイタリア語があふれる街に、私の中でずっと休んでいた親しみというものを、いっきょに噴出させてしまった。  そしてすぐ、私はその初めて知り合った女友達の水着を借りて、アイスクリームをなめなめプールに行き、プールで泳いでいる子供をほんとうにかわいいと思った。そばへ行って肩のへんを噛みついてやりたいくらいだった。そしてまた幸せで、体中が光るようで、自分自身でさえ好きで、自分にも噛みついてやりたかった。  何もベルリンがひどい街だったわけではない。ミラノが特別に美しい街だったわけでもない。人には、人間と人間との間にもあるように、街との相性というものがある、ということだったような気がする。私は、いつまでもミラノにいたいと、住んでいる間じゅう思った。  ミラノは私に、楽しい思い出しか残さなかった。しかしあの相性の悪いベルリンは、楽しいということ以上の重い意味を、私に教えた。  もう一度どちらかの街へ行けるとしたら、私は私を拒み、私が憎んだベルリンに、おそるおそる行ってみたいと思う。 [#改ページ]  うそ話を  何故子どもの絵本を描くのか。  多分、それは、私の欠陥のためかも知れない。あらゆることが、自分の子ども時代にかえってゆく。  私は客観的な大人として、子どもを観察し理解し子どもに語りかけているのではない。  私はあくことなく、私の中の子ども時代のわたしに向かって語りかけている。  私は牛のように飲み込んだものをはき出し、はき出したものを飲みこむことをくり返している。  私が子どもを理解出来るのは、その子どもの中に幼い私を見つけた時だけなのだ。  私は信じるより外仕方がない。  私は平凡な子どもだったのだから、どの子どもの中にも私と同じような平凡さがあるにちがいないと。  信じるということと幻想が、ほとんど同じことかも知れないのに。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] [#2段階大きい文字]  絵を描くこと[#「絵を描くこと」はゴシック体]  兄は心臓が右にあった。  私は四歳で兄は六歳だった。  心臓が右にあるということで、兄は特別な人だった。  心臓弁膜症もあったので兄のくちびるの色は外の子どもと違う色をしていた。  爪の色も、他の子どもと違っていた。  そして、それが私の誇りであった。  兄は絵を描くことが好きだった。  ちゃぶ台に向かって、兄は夢中で、本当に夢中で絵を描いた。  私は、そのちゃぶ台にしがみつき、尊敬と誇りでうっとりしていた。  佳境に入ると、兄は少し口をあけ、舌で鼻の先をなめるようにした。  兄は兵隊さんを描いた。  沢山の、様々な——。  兄は兵隊さんを足の先から描き始め、ゲートルを描き、ベルトを描き、鉄砲をかつぐうでを描き、横向きの顔を描き、最後に帽子を描いた。  下から描き出した兵隊さんの頭が、ちょうど紙の天井につく一センチ程のところで、ぴたりとおさまるのだ。  下から次第に出来上がってゆく絵を、私はどんなに美しいと思ったことだろう。  海の底から仕上がってゆく船の絵——、その船に兄は私をのせてくれ、隣りに兵隊さんになっている兄ものせた。  私は兵隊さんになった兄と船にのり、見たこともない海をただよった。  十二色の王様クレヨンで、兄はおびただしい絵を描き、私はその横でただ幸せであった。  私は自分で絵を描こうなどと思いもしなかった。  第一私は夢中になって、口を半開きにして舌で鼻の先をなめる真似など出来なかった。  没入し、集中し、形相を変えることの出来る人だけが、あのような絵を描けるのだと私は信じた。  兄は十二歳の六月に死んだ。  兄の死んだことを知らなかった父の友人が兄のために、絵具とパレットをお土産に、山奥の私たちの引き揚げ先を訪れた。  真新しい小さな白木の位牌の横にピカピカ光る絵具を供えて、父の友人の大男の小父さんは肩をふるわせて目をこすっていた。十二歳の子どもにはぜいたくな絵具だった。  父の友人にとっても兄の絵は特別であったのだと、ひたすら兄を敬っていた私は、自慢たらしく思い、兄が死んだことに慣れないでいた私は、真新しい位牌の横のピカピカ光る絵具で、兄の不在を衝撃的に受け止めさせられた。  しばらく仏壇で光っていた絵具は私に与えられた。  私はうろたえて、困った。  私は絵を描くことが好きでもなかったし、何より兄に対する裏切りのように思えた。  しかし、飢えて混乱の時代の山奥の学校で兄の絵具を持った私は注目をあび、光る絵具を持っていたために、私は写生大会というものに出場して賞をもらった。  一ちょうらの洋服を着て、汽車にのって、賞状をもらいに行き、帰りに生まれて初めてのとんかつを食べて動転し、幸せであったけど、賞状をもらった絵のことを考えると、兄に対して恥ずかしい思いがした。自分の絵を見ても、兄の絵を見ている時の誇らしく幸せな気分になれなかった。  私ノ絵ナンテ兄チャンノ絵ニクラベタラタダノ絵ナンダモン、私ハタダノ人ダモン。  兄が子どものまま死んだことが、私に固定した幻想を与えた。  兄も生き続ければ、只の人として成長したかも知れないけど、私の中に兄は永久に、特別な人であり続けた。  何より、絵を描くということが、本来は、兄のようである人だけにゆるされることなのだという幻想は打ち消しがたかった。  それは、夢中になって、息を荒くし、あるいは静まり返って、口を半開きにして、舌をチロチロ蛇のように燃え上がらせて、何かにつき動かされて、現われてくるものでなくてはならなかった。  そうして出来ることなら、心臓が右にあり、絵は下から次第に仕上がってゆくことが望ましいのだった。  私は心臓が左にあり、木登りが達者で、隣りの子どもの千代紙をくすね取り、その仕返しを受ける只の子どもであった。  只の人として絵を描き続けた。  六歳のあるいは十歳の兄が、私の中に居るので、私は只の人としての自覚を、ことに絵を描く時に強く持った。  青春期に絵を描く学校に居て、友人の何人かは、明らかに自分の天分を信じていた。  私は多分、そのような錯覚なり、自信なりを一度として持ったことがなかった。只の人として、絵を描き続けることで、ほとんどの人が、只の人だということがわかった。そして、只の人も、それぞれかけがえのない自分であるということを学んだ。  只の人がますます只の自分であることに、かぎりなく近づいてゆくということは、面白いことだった。 [#挿絵(img/197.jpg)] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] [#2段階大きい文字]  生活すること[#「生活すること」はゴシック体]  終戦をはさんだ幼年時代、私は幼いながらいっぱしの生活者だった。  大連で、終戦を迎え、母は広場に、父の毛皮や自分の着物を売りに行き、帰りにコーリャンを買って来た。  私は妹のおしめをとり替え、なべ一ぱいのコーリャンを炊き、家の前で、たんすのひき出しに入れた南京豆を売った。  あるいは首からボール箱を下げて、通りかかるロシア人にたばこを売った。  父が、ぼろ切れで作ったわらぞうりをかついで行き、父と並んでわらぞうりを売るより、小さな女の子である私が一人で売った方がよく売れると気が付くと、父に散歩に行ってもいいと言った。  私はけなげをよそおうことも知り、父が弱々しく笑いながら遠ざかる哀しみも知った。  そうして引き揚げが近づくと自分と弟たちの手袋を編んだ。  私は夜なべをするおばあさんのようにくず毛糸と格闘した。  悲惨な時代であったにもかかわらず、私の幼年時代はかけがえのない輝かしさを私に残している。  それは、生活することに、子どもである私が示した、反応の輝きであったような気がする。  手袋を編むことと、近所の子どもとかくれんぼすることの間に違いはなかった。  南京豆を売ることと、アカシヤの葉っぱで、イロハニホヘトと占いをすることに区別はなかった。  かくれんぼも楽しくつらくくやしかったし、南京豆を売るのも楽しくつらくくやしかった。  子どもだったから、私は考える前に生きていた。  生きるために、私は私なりにめまぐるしく頭を働かせねば失敗するのだった。  人間の持つあらゆる喜怒哀楽の根源を私は子どもの生活の中で体得した。  それが不幸の時代だとしても、私が不幸であったわけではない。  多くの日本人がたどった道を通って、私は大人になった。  大人になることは平凡な生活者になることだった。  そして平凡な喜怒哀楽をつみ重ねた。  わらぞうりを売って、何がしかのお金を得、それで、コーリャンを食べるという、基本的な生活の方法がしみついてしまった私は、働かずに生活出来るということを考えることが出来なかった。  私は子どもを産んで働けなかった間でさえも、罪の意識にさいなまれた。  年月を経て、私は沢山のことを多分知ることが出来たのかも知れない。  そのことによって、私は色々のことを分離して考えたり、行動したりすることも覚えた。  にもかかわらず、生活することが、仕事をしたり、絵を描いたりすることを混乱させることに腹を立てることも度々あった。  出来れば、精神と肉体を分離させたいと願うこともあった。  そんな時、あらゆる事が、一つの高さの上で営まれていた時間を思い起こす。  どんな淋しさも、夕日が燃える見知らぬ街で、迷子になった五歳の私の号泣と孤独の激しさの前に色あせる。  喜びも哀しみも、生活することを外して、得ることが出来ないことを思うと、頭の中だけのイマジネーションなど、あるはずがないと思うのだ。  おしめをとりかえることと絵を描くこと、ビニールの袋の中に燃えるゴミと燃えないゴミを分別することと文章を書くことは区別出来ることではないと思う。  区別してはいけないと思う。  私はイマジネーション豊かに生きたいと思う。  豊かな作品を作りたいと不遜《ふそん》にも願う。  イマジネーションというものを得ることが出来るのは、不都合なことを山とかかえた、あんまり羨ましくもない生活を平凡につみ重ねることによってしか得られないのだと思う。  いや応のない現実に直面し続けることによってしか、想像力は生まれないのだと、私は頑迷に信じているのだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] [#2段階大きい文字]  虚構の世界を作ること[#「虚構の世界を作ること」はゴシック体]  小学生の時、私は作文を書くのが苦にならなかった。  ペラペラと何枚でも書いた。  ほめられるとエスカレートして嘘をとりまぜて書いた。  嘘など、いくらでも思いついた。  そして少しうしろめたいのだった。  うしろめたさを持ちながら次第に大胆になり、家の近所の洞くつにバイオリンをひく巨人が居ると書いた。  先生がこれは本当かと私の目を見て聞いた。私は恥じ入り、家へ帰っても、あまりごはんが食べられなかった。  少し年がいくと、私は手あたり次第に本を読み、今度は読んだ本そっくりの文体で作文を書いた。  小学校六年の時の文集の作文は、夏目漱石の『草枕』そっくりで、読んだ母が、いやな子で生意気だと私をにらんだ。  私は母が恥ずかしがったことにひどく打ちのめされた。  私は夏目漱石の文体で先生をおちょくったのだ。  中学生になると毎日日記を書いた。  誰にも見せられなかった。  それはあんまり本当のことを書くので誰にも見せるわけにはいかなかった。  嘘より本当が恥ずかしくなっていた。  父が死んだのは私が十九の時で、すぐ下の妹は十二歳だった。  十九の私が一番大人に近かったので、私は十二の妹や六歳の妹が父を失ったことを不憫《ふびん》に思った。  不憫なので、妹たちに対して感傷的になっていた。  父が死んで一週間程した時、私は十二歳の妹の机の上に書きかけの手紙を見つけた。  私は妹の手紙を見ることに良心の呵責《かしやく》を感じたが、好奇心の方が強かった。  彼女は沖縄のペンフレンドあてに手紙を書いていた。  ペンフレンドはやはり十二歳で、男の子だった。 「私はあなたとお別れしなくてはなりません」と書き出してあった。  彼女は父が死んだことを告げ、その父がどんなに優しく立派だったかを語り、その父が死んだので、大きなお屋敷を悪い人に売らなくてはならなくなったと書いてあった。  大きなお屋敷の庭には、芝生がひろがり、セパードが居て、グランドピアノがある応接間があり、その応接間には、ペルシャじゅうたんが敷いてあるのだった。 「私は田舎のあばら屋にひっこしをするので犬とも芝生ともグランドピアノとも別れなくてはなりません。  もうデザートに焼きリンゴを食べることも出来ないのです。  だから、私はあなたともお別れしなくてはならないのです」  私は驚いた。  私たちの家は小さな教員住宅で、庭にはキューリやトマトが植えてあったが、芝生など一本も生えていなかった。  私はペルシャじゅうたんなど見たこともなかったし、家中で、グランドピアノにさわったことのある人間も居なかった。  おまけに焼きリンゴ——。  妹は自分の不幸にどっぷりひたり、さらに拡大して、一つのドラマに身をゆだね、手紙の中でちがう人生を生きていた。  中々の表現力で、明らかにそれを楽しんでいた。  妹は可哀相な女の子になりながら、多分うっとりとその手紙を書いたに違いない。  そして、食事の時、もっと小さな妹に、「あっカラス」と空を指さしながら、小さな妹のお皿からおかずをくすね、母親からこづかれていた。  しかも、妹二人は父が死ぬ前よりもなお一そう寄りそって、父が可愛がっていた犬と戯れて、他人が見れば、それは不憫であった。  妹はただひたすら生きていた。十二歳の子どもを、あるいは父を失うという現実を。  彼女は違う人生を描いていたのだろうか。  この手紙は嘘なのだろうか。  彼女は違う人生を描いたのではなく、やはりそれは彼女の悲しみそのままではなかったか。  その手紙は、私の感傷を越えて、したたかで、臆面もなく、可憐であった。  妹は、虚構にすり変えて、現実をひたすら生きていると私は感じた。  これを嘘と言うのだろうか。  このリアリティのこもったホラを嘘と言うのであろうか。  私は自分が小学生の時書いた数々の嘘をちりばめた作文を思い出す。  私の嘘など、なんとひ弱で、リアリティが無いものだったか。  つき上げられる欲求もなく、ペロペロと口から出まかせの嘘をつき、先生にじっと目を見られて恥じ入った作り話。  母を恥じ入らせた夏目漱石そっくりの作文。  妹も私にあの手紙を見られたことを知れば恥じ入るかも知れない。  しかし、私は妹の悲しくもこっけいなホラ話から、創作の原点を学んだ。  自分をおそった現実と哀しみから離れることなく、ロマンスをくりひろげたこと、虚構の世界を作り上げることで、現実をのり切ること。それがたとえ、安手の少女小説まがいであったとしても。妹にとって、あのうそ話はとりもなおさず生き続けることを意味していたにちがいない。  私の仕事はうそ話を作ることである。  私はそのうそ話を、十二歳の妹のように作りたいと思う。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  朝目がさめたら、風の吹くままに  思春期の頃「人は何のために生きるのか」ということを毎日毎日考えた。母をみていると、彼女が何か明確なビジョンを持って生きているような気がせず、その日その日行きあたりばったりに子供を叱り、急に笑い、お金の計算などしているのをみて、とても軽蔑した。そのうちにわかるだろうと、私もくたびれてきて、しだいにうすらぼんやりとしてきてしまった。いま、どう考えても、私が生きてきたのは根拠によるものではないのである。私は何となく生きてきたので、人も又何となく生きているものだと思っていた。  そして世の中は不可解だらけで、不可解でなくなったら、私は生きていても面白くないにちがいないと思い、不可解と諒解し合うこと、あるいはかぎりない不可解とかぎりなくめぐり遭うことをのぞんできただけだと思ってきた。  めぐり遭った不可解をある時は、ねじ伏せ、ある時は妥協し、ある時は不可解をそのまま狂気せんばかりに抱きしめ、あるいは、手もふれることの出来ないはるかな不可解にさよならを言ってきただけなのだ。  でも、そんなうすらぼんやりした阿呆は、私だけだったのだ。私以外の人たちは根拠という奴を持ち、どこにそれを置いたらいいか知っていたのだ。私はそんな人たちの中で、うすらぼんやりと生きてきて、でも考えてみると、私はたしかに生きてきて、別に後悔もしていないし、出来たら、いつまでもいつまでも生きて根拠なんか持たずに死にたくない程長生きしたい。  私はきらいなことばが沢山ある。今のところ「生きざま」と「翔んでる」とか「翔ぶ」とか、「解放」と「女性の自立」ということばである。とりわけ、女性の精神の解放と言われると、何だかさっぱりわからない。  ごく幼児の時、私は閉まりっぱなしの人で、おとなしくて、気がきいて、感情のむらがなく、父母に従順で、中でも兄に絶対服従していた。私は、お嫁さんになりたくて、母の持っているきれいなものや気にいっているものを見ては、「これお嫁に行く時ちょうだいね」と言っていた。私はそんな自分に何の不自由も感じなかったし兄の命令に喜々として従い、どこへもついていったし、それがうれしくて、私の持っている能力のすべてで兄に応えようとしていた。私はそれをみじめだと少しも思っていなかった。今でも私の幼年時代は犯すべからざる聖域である。  私は、小学校二年の時引き揚げて来て、父の田舎に行った。その時の先生は十八歳の代用教員だったけど、彼女は天気がよすぎると教室に来て教えるより家で洗たくをしたくなり、私たちが先生を迎えに行くと、鼻うたをうたいながら橋をわたって来て、「今日山程洗たくしちゃった」と晴れやかに笑い、しらみのいる子が側によって来ると、「イヤーンきたない」とにげまわり、「森の石松」をモリのセキマツと読み、病院のりえ子さんと私をえこひいきしていた。私は女王のりえ子さんに家来のようにつきしたがい、いつもにこにこしていた。  ある日先生が私を呼んで、「あなたは引き揚げ者だからといって遠慮することはないのよ。りえ子さんが手を上げると下げるでしょ、もっと堂々として言いたいことを最後まで言いなさい」と言った。私は自分が引き揚げ者だと思って卑屈になっていた意識はまるでなかったので不思議だったけど、次の日から、私はまるで違う人になってしまった。私を違う人格、今日までの私にしてしまったのは、天気のいい日に洗たくをしてくる十八の若い女の先生だった。次の日から、私は最後まで言いつのり、キンキン声でハイハイハイと出しゃばる人になってしまった。私の人間としてのゆかしいところや、しんぼう強いところ、人に対して一歩ゆずって、不足に思わない良い資質を一日にして失ってしまった。  それから私は開きっ放しである。  今、私は偉い女の人に、女の自己主張をむずかしい論理や歴史や女性の生理のしくみなどを含めて力説されると、何だか恐ろしくなって来る。多分無自覚に、あんまり幼い時に、自分の垣根をいともあっさりととりのぞいてしまった私は、現象としては、沢山の意識のつみ重ねで、「解放」というものにたどりついた立派な人たちと、似ていながら、何と違っていることだろうと思う。  だから、私は考えてみると、何も語るべき立派な論理は持っていない。  どうして、今の職業を選んだかと聞かれるが、私は、何の根拠もなく、何となく今はそうなっているだけで、自分が何かを創造しているという意識もあまりないし、創造とよばれる程大それたものだと考えられるととても困る。そんなことで、たまたまお金をもらったりすると申し訳ないと思う程で、だらしのない腰抜けだと言われれば、その通りだと思う。  二十年前私は美術学校のデザイン科に入学したけど、デザイナーがどんな仕事をするのか知らなかったし、親は女が絵描きになったり、芝居をやったりするかたぎでないことをやらせたくなかったらしく、きりょうの悪い私が、何か手に職をもたずに、嫁に行きそびれることを心配して、デザインは女でも出来て、飯の食える職業だとどこかで聞いたらしかった。  大学も二年になると、デザイナーは何をやるのか大体見当がついたけど、何とも極度な正確さが要求されて、何でも紙からはみ出し、まっ黒けになってしまい、直角を作るのに一時間もかかる私は、ようやくありついたアルバイトも、全部友達にやってもらい、申し訳ないので、鉛筆をけずって差し上げようと五、六本をけずって並べると、友達は、ばつの悪そうな顔をしてそれを全部けずり直した。うちひしがれた私は、ちがう友達に、デザインをする時一番大切なことは何かと聞いたら、「紙をよごさないことだよ」と真面目に答えたので、私は実に下らないと思った。彼が、もしもっと、抽象的で、高邁《こうまい》なことを答えたら、私は、それでも自分の無器用さに鞭《むち》うったかも知れない。 「紙をよごさないことだよ」の一ことで、私は小学校三年の時、コロリと別の人になったように、コロリとデザイナーになることをあきらめた。  そして、三角定規を使わなくてもいい絵を描いて、広告の中の絵を描くイラストレーターになろうと思った。  私の中にゆかしい謙虚さは失われてしまっていたので、私はもしかしたら、食いはぐれて、職をみつけることは出来ないかも知れないなどと考えないで、下手な絵でもどこかで拾ってくれると思う程、「ハイハイハイ」と手を上げつづけた小学生の私と何も変わらず、手を上げれば、だれかに指名されると思っていた。そして私はデパートの宣伝部に拾われて、鼻うたまじりに下手な絵を描き散らしていた。お嫁さんになることなど、とっくに忘れていたのに、同級生の男の子に初めてキスをされて、びっくりしているうちに結婚してしまった。 [#挿絵(img/219.jpg)]  私は結婚とは何かと本当に考えることもせずに結婚した。  最後まで、自分を言いつのる性質は、私を多分かぎりなく我儘にしていったのだと思う。たいがいの人は、程よいところで、程よい接点を見つけて、人生とうまくつき合っていくのだろうに、私は、結婚して、当然生まれるだろう子供を産むことが嫌だった。  初めて妊娠した時、それでも、その命を消すことはゆるされないと思った。私は私の自由を失われることを惜しんで、泣いた。私はもしかしたら生まれて来る子供を憎むのではないだろうかと心配した。自分がそれまでやってきた仕事など、紙くずのようなものだとわかっていても、それを続けたいと思う自分のエゴイズムを憎んだ。  それでも私は実に立派な赤ん坊を産み落とした。四十三キロの私は六十三キロになり、バストは一メートル四センチになって、おぎゃーと子供の声を聞いた瞬間から、私は、母親の化け物のようになった。私のおっぱいに吸いつく猿のような生き物は、輝く天使だった。私は必死でお乳に吸いつく息子が八十歳になった時、その孤独をどう耐えるのだろうと思って涙が出た。私は、息子を抱いてせまい団地の六畳をニタニタ笑いながら、どうしてうちの息子はこんなに可愛いのだろうか、歩いている知らない人をひっぱりこんで、「これが私の赤ちゃん、これが私の赤ちゃん」と言わないでいることが苦痛なくらいだった。子供でさえ、そんな風に、偶然私のところにころがりこんで来て、立派な母親になろうという覚悟もないまま、母親に私はなってしまった。そして死ぬまで、私は母親である。  ベランダに干してある小さな靴下やよだれかけや肌着でさえ、私をうっとりさせているのに、子供が百日たつと、私は又仕事をしたくなった。どうしてだか、私にはわからない。私は女が仕事をすることをいいことだとも、悪いことだとも思わなかったし、今も思っていない。多分、私の祖先は水呑み百姓をえいえいと続けてきて、女も一日として昼寝をするような生活をしたことなく、十人以上の子供を産む間も、野良に出て働いていたに違いない。祖母は、八十七歳で死ぬすぐ前でさえ、肥桶をかついで、嫁いびりをしていた。  彼女は、働くことが、女の自立であるなどと考えたことはないに違いないが、女が働くことの本質的な意味は、私は、彼女やその娘や嫁の中にあるような気がする。何もしないでいることは罪悪であるという貧乏人の思想が私の中にあるに違いない。にもかかわらず、私はひどいなまけものである。ひどいなまけものであるのに、楽しく遊んだり、趣味を持ったりすることは無駄なことだといううしろめたい気持があるのは、根っからの貧乏人根性に違いない。  そのくせ、私は経済観念がゼロに等しく、努力の割に見返りの少ない仕事の方が、働いた実感が強く、その時に思う根強いうらめしい気持が、凶作を嘆いて、天を仰ぎ見ただろう、祖母達の気持に通じるような気がして、それを世の中の仕組みとか、階級のためだと社会的に目を見開く意識よりも、ただ天を仰ぎ見るのである。  天を仰ぎ見た帰り道、誰も見ていなければ、お芋の一つや二つかっぱらったってそれはそれで自然の摂理であるような気さえしてくる。  私がたまたま、子供の絵本を作ったり下手なカットを描いたりしていても、自分が文化的な仕事にたずさわっているような気が少しもしないのは、私に出来ることが、たまたまそれしかないからで、ひたすら草むしりをしていた祖母たちが、それが仕事だと思っていたのと同じかも知れないが、私はそれより何千倍も楽な仕事をしていると思う。力なんかいらないし、腰が痛くなる程働いた事もない。洋服が泥で汚れることもないし、亭主にさからい子供だって一人しかいない。小姑にいびられることもなく、夜なべにわらじを作ることもない。  これを仕事と呼んでいいものか。  あたり前であるけど、仕事が、大変だと思ったことはない。大変だと思う程の仕事をしていないせいだと思うが、多分、私が仕事をする過程の中で、小学校三年時から、開きっ放しになっている私の精神構造が、都合よく働いているのかも知れない。  考えてみると、その時から、私は、やたら口数の多い人間になっていったのだ。  私は見たことや、いずこともなくやって来た数々の想念を、じっと内に秘めてためこみ、つつしみ深くしていることが出来なくなってきたのだ。誰か、側にいれば、すぐさま口に出したく、たまたま人がいなければ、一人言を音を立てないでしゃべっているのだ。私がそれに気が付いたのは、もう二十も過ぎてからで、お風呂の湯ぶねの中で、いい気持になっていた時、口は閉まっているのに舌のつけ根が動かずに言葉をしゃべっていた。  多分理想的な聞き手を求めていたであろう私は、そんな人間は存在しないという事くらいは悟ったのだと思う。  のべつ口を動かす人間がいかに迷惑かということも知っていたので、何かを描いていれば、それの代償になっていたのだと思う。それを創造などと呼んでいいものだろうか。にもかかわらず、それ程口数の多い私が、自分の仕事について何かをしゃべれと言われると、全く口を閉ざして、一言も発することが出来ない。私は恥ずかしくて死にそうになり、それについて説明したり弁解したりすることが何も出来ない。誰かに何かを言われれば、皆もっともだと思い、消え入りたい。他の人が、全く反対のことを言っても又、もっともだと思い、穴があったら入りたい。そして出来たら忘れてしまいたい。  とここまで書いて来たら、編集部から手紙をもらって、そこには、私が人生に於いて表現したい何か、絵本を書くことは私の生活にとってどの位置を占めているか、暮らしの中で暮らしと創造が互いに持っている関係について、私自身女であることをどう考えているかについて書いてくださいと書いてあった。編集テーマが変わったのか、それと生きる根拠をどこに置くかということが同じことなのか、私にはわからない。  私はそこで、又自分がどのくらい阿呆かということを自覚しただけで、そのどれをとっても明確な答えも考えもないうすらぼんやりとした自分をみつけるだけである。  私が何を表現したいか、生涯のテーマなど、私にはわからない。人間が生きているこの宇宙のどの部分を、ピンセットでつまんでみても、そこには、私が感じる何らかの真実というものがあれば、それで充分だと思うし、自分が真実だと思っても、人はそうは思わないかもしれないし、明日は、自分で、あれはちょっとまちがえちゃったと思うかも知れない。それに私が一番嫌なのは、これが真実これが真実とわめく事である。小学校三年のときからハイハイハイと手を上げてきても、私は恥ずかしいことに対してだけは敏感だったつもりであり、何が恥ずかしいかは恥ずかしくて言えない。こういう文章を書くのが一番恥ずかしい。暮らしと創造の関係なんてとんと見当がつかぬ。  朝目がさめれば、子供のご飯を作り、子供が死なないように、誰でもやることをやるだけで、自分のやり方は人様が見れば顔をしかめるだろうけど、あくせくやっているうちに夜になる。その間に、暇があるので絵を描いたり、話を考えたりする。  ただ私は、いつまでも生きていたいと意地きたなく思うのは、立派な作品を残したいからではなく、電車の中で、耳の穴に毛がみっしり生えて、その毛の中にしらがや茶色や灰色もまざっているおじさんに会ったり、エレベーターの中で、ゾロリと口中金歯のおばさんに会ったりしたいからである。  息子を、声に穴があくほどどなりつけ、そのくせ、うちの息子は頭が悪いなどと人に言われれば、常日頃それを苦にしていても、ムカムカし、マンガとテレビに呆けた顔つきでのめり込んでいるのを見れば絶望しても、私の誕生日にあり金はたいて、バラを二本プレゼントされると、死にたくないのである。そのどれかが欠けても面白くない。よく出来た息子にバラを百本プレゼントされる人がいても私程死にたくない人はいないだろうと思う程である。  さんざん女房を泣かした人が、女房が病気になるとすべてをなげうち看病と真心をささげ、一周忌には涙なしには読めない美しい愛妻記を友人知人にくばり、三回忌のころには若い新しい女房と生まれかわったようにはつらつとやったりするのを知ると、側に行って肩をたたいて、おいしいおすしなんかしみじみとごちそうしたくなる。  一日中、子供のように、なぜなの、なぜなのとしつこく聞きまくる友達に、「もう、うるさいから、自分で考えなよ」と言ってじゃけんにしても、三日目には自分からでんわして「あそびにおいでよ」と言っている自分を笑ってしまう。そんなことをやめたくないから、私は自分の葬式に自分が出席出来ないのが何よりも残念である。そんな生活をしている私に、創造がいかにかかわっているかと言われれば、すべてがかかわっており、すべてがかかわっていないような気がする。  私が女であることをどう考えるかと言われても、私は生まれてからずっと女しかやって来たことがないので、男がどんなものなのか見当がつかない。  見当がつかないから、私は、多分男が好きなので、好きと言ってもこの年では、何をしようもないので、ひそかにたてから見たりななめから見たり、ひっくり返して見たりするのが無類の楽しみで、それくらいは神さまだって許してくれると思う。  女の特権が何かと言えば、子供を産むことしかなくて、たった一人だけど子供を産んで、私はごくあたり前の女になれたことを感謝している。木登りをした私も、それをじっと見て決してそんな下品なことをやらなかった、色の白い静かな麗子ちゃんも、子供を産んで、不思議だけど、あたり前である。  子供が誘拐されて、仕事をやめなきゃ子供を殺すぞと言われたら、やめますやめます、すぐやめますと言わない女がいるだろうか。  戦争を仕かけた男が、自分の息子をその戦争で失っても、じっと耐えて、なおかつ男々しく戦いつづけた例はいくらでもある。世の中は不可解である。  何が一番不可解かと言えば、男と女の関係が不可解で、こればかりは、ビタミンA〇・〇三�などと言えないのが、気味悪く、又いい気持である。  私には「翔んでる」ことも「自立」も「解放」も、何だか、わけがわからないむずかしいものだけど、子供が飢えれば、カボチャの一つや二つどこからかいただいて来てしまうし、それが出来なくて、何の母かと思うけど、戦後の恐ろしい時代に、子供より自分がおにぎりにかぶりついていた女の人も見てもきた。  今は多分その頃からくらべれば呑気な時代で、子供が飢えていないので、時間もあるから、私は仕事が出来る情況にあるので、何となく仕事をしている。  ぜいたくな時代だと思う。でもぜいたくが出来る間はぜいたくをさせていただく。 佐野洋子(さの・ようこ) 一九三八年、北京に生まれる。武蔵野美術大学卒業後、ベルリン造形大でリトグラフを学ぶ。絵本、童話、エッセイの分野で活躍。一九七四年『おじさんのかさ』で注目され、一九七六年『わたしのぼうし』で講談社出版文化賞を受賞する。一九七七年の『100万回生きたねこ』はロングセラーとなる。一九八三年『わたしが妹だったとき』で新美南吉児童文学賞を受賞し、二〇〇四年『神も仏もありませぬ』で小林秀雄賞を受賞する。その他に『嘘ばっか』『アカシア・からたち・麦畑』『私はそうは思わない 』『友だちは無駄である』『ふつうがえらい』『がんばりません』などユニークで魅力的な著書が多数ある。 本作品は一九八二年二月、株式会社リブロポートより刊行され、一九八五年七月、集英社文庫として刊行された後、一九九〇年八月、ちくま文庫に収録された。